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図説「合戦図屏風」で読み解く! 戦国合戦の謎 の商品レビュー

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2015/10/04

私はまだ実物を見たことがありませんが、「合戦図屏風」という作品があるようです。有名な合戦の様子を、6つから8つ程度のシーンに分けて描かれているようですね。 お金と時間をかけて作成するものであり、今回紹介されている屏風図はいずれも豪華で力作なモノばかりなので、当然スポンサーがつい...

私はまだ実物を見たことがありませんが、「合戦図屏風」という作品があるようです。有名な合戦の様子を、6つから8つ程度のシーンに分けて描かれているようですね。 お金と時間をかけて作成するものであり、今回紹介されている屏風図はいずれも豪華で力作なモノばかりなので、当然スポンサーがついていて、描き手に対して何等かの要請がされていることも容易に想像できます。 この本では、そのような状況も踏まえて、歴史学者の小野田氏が各屏風図にまつわるエピソードなどを解説してくれています。一度機会があれば、実際に鑑賞してみたいと思いました。 以下は気になったポイントです。 ・家康は晩年の子のなかではとくに頼宜に期待を寄せていた、1609年には駿河・遠江・三河の50万石に加増、駿府城主にした。しかし家康死後、秀忠は1619年、紀伊・伊勢55万石に移した。幕府中枢から体よく遠ざけられた(p41) ・長篠の戦で、一見すぐに倒れそうに見える馬防柵を侮った武田軍は、まんまと挑発に乗せられた。実際には、空堀・柵・土居の三段構えであり、要塞のような鉄砲陣地であった(p49) ・姉川の七本槍の一人である、渡辺金太夫は、信長から「天下第一の槍」と日本一の勇士と称えられた(p53) ・姉川合戦という呼称は、徳川家のみが使用していたもの、織田家と浅井家は、それぞれ「野村合戦」、朝倉家は「三田村合戦」と呼んでいた(p55) ・姉川合戦では徳川軍として戦った七人であったが、この後は徳川家と袂を分かっている、それは高天神城の攻防戦で、武田側についた(p55) ・賤ヶ岳の七本槍では、福島正則、加藤清正、加藤喜明、片桐且元、糟屋、脇坂安治、平野が感状をもらったことになっているが、屏風に描かれている中にはメンバーが固定していない。加藤清正、加藤喜明、片桐、糟屋、脇坂、平野は固定メンバー(p61) ・家康は信長の次男で、秀吉に不満を募らせている織田信雄、長曾我部らと組んで、秀吉と対決して、小牧・長久手の合戦が始まった(p68) ・戦国の八陣、えん月・鶴翼・方円・魚鱗・長蛇・鋒矢(ほうし)・雁行・こうやく、がある。古代中国で考案されたもの(p85) ・三方が原の合戦において、家康の領土の先には織田信長の尾張があり、このまま武田軍を尾張へと進軍させてしまえば、もやは信長から対等の同盟相手とみなされないということから、遠江で食い止めるために、家康が不利な戦いに挑んだ(p151) 2015年10月4日作成

Posted byブクログ