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妖怪学新考 の商品レビュー

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2024/07/20

妖怪学(現象としての妖怪伝承と、語り文化ないし文化表象としての妖怪の両方を取り扱うことを通じて、人間の社会/習俗/文化/心理等の諸相を考察しようする、古典民俗学から生まれつつ民俗学とはまた異なるアプローチを持ちつつある人文系学問分野、と要約できるか?)の入門書としては素晴らしい。...

妖怪学(現象としての妖怪伝承と、語り文化ないし文化表象としての妖怪の両方を取り扱うことを通じて、人間の社会/習俗/文化/心理等の諸相を考察しようする、古典民俗学から生まれつつ民俗学とはまた異なるアプローチを持ちつつある人文系学問分野、と要約できるか?)の入門書としては素晴らしい。柳田民俗学のテーゼからどう脱出して固有の学的領域を打ち立てることが可能かという議論にもなっている。事例ひとつずつが興味深いのもよい。 ただし、前半部と後半部が元々異なるところで書かれたものを合本したという経緯があるためか、前後半でつながりがいささか悪いところがある。この講談社学術文庫版は2015刊行だが、2論文の初出はそれぞれ1983, 1989に書かれ、底本となった初版は1994年に出ている。京極夏彦『百鬼夜行』シリーズ第1作『姑獲鳥の夏』が出たのと同じ年であり、水木しげる文脈とはまた異なる種類の妖怪ブームが始まる直前の著作だということは踏まえておきたい。 また、「闇」という言葉に仮託された現代社会に対する平板さについては、やや浅薄な社会語りという印象があり、勿体無さを感じた。妖怪学は都市的生活における情念の記号論として、また圧倒的に理解不能な他者を理解せんとする恐怖混じりの象徴として、有効であるようにも思えるのだが、当時の小松はそうした議論にはコミットしなかったようだ。 しかしグランドセオリーとしてこれだけ十分な視座を提供してくれてはいるのだから、社会科学的な応用実践まで期待するのは過剰な欲求、行き過ぎのコメントかもしれない。それだけ可能性に開かれ得た本だと評価している。 読書会で読んだ時のメモはこちら: https://min.togetter.com/TG1NA9o

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2019/01/16

第1部 妖怪と日本人(妖怪とはなにか;妖怪のいるランドスケープ;遠野盆地宇宙の妖怪たち;妖怪と都市のコスモロジー;変貌する都市のコスモロジー;妖怪と現代人) 第2部 魔と妖怪(祭祀される妖怪、退治される神霊;「妖怪」の民俗的起源論;呪詛と憑霊;外法使い―民間の宗教者;異界・妖怪・...

第1部 妖怪と日本人(妖怪とはなにか;妖怪のいるランドスケープ;遠野盆地宇宙の妖怪たち;妖怪と都市のコスモロジー;変貌する都市のコスモロジー;妖怪と現代人) 第2部 魔と妖怪(祭祀される妖怪、退治される神霊;「妖怪」の民俗的起源論;呪詛と憑霊;外法使い―民間の宗教者;異界・妖怪・異人)

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2015/11/03

再読。未読了。 こどもの頃、久留里の伯母の家(中庭)に不安、恐れといった感情を抱いたのは、今まで見たことのなかった、間口が狭く、奥に延びる居住空間のせいだったかもしれない。

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2015/09/20

・妖怪の学といつたら小松である。その小松和彦「妖怪学新考 妖怪から見る日本人の心」(講談社学術文庫)を読んだ。おもしろい。当然、この書での、つまり小松和彦の妖怪の定義がまづ問題になる。それは例へばかうある、「『神』とは人々によって祀られた『超自然的存在』であり、『妖怪』とは人々に...

・妖怪の学といつたら小松である。その小松和彦「妖怪学新考 妖怪から見る日本人の心」(講談社学術文庫)を読んだ。おもしろい。当然、この書での、つまり小松和彦の妖怪の定義がまづ問題になる。それは例へばかうある、「『神』とは人々によって祀られた『超自然的存在』であり、『妖怪』とは人々に祀られていない『超自然的存在』なのである。」(201頁)神と妖怪が紙一重といふのは容易に想像がつく。それは祀られてゐるか祀られてゐないかの違ひだといふのである。確かに河童神社や豆腐小僧神社、付喪神神社などといふのはなささうである。しかし、これらも祀られれ ば神になる。祀られない限りは妖怪のままである。悪さをしようがしまいが、妖怪は祀られてゐないから神ではないのである。神にはなれないのである。これは 端的で分かり易い定義である。ただし問題はある。所謂祟りである。祠の神をしばらく顧みなかつたら凶事が続く。これはあの祠の神の祟りだ。祀らねばとお祀りをしたら収まつたなどといふのがそれであつて、この場合の祠は神なのか妖怪なのかといふことが問題になる。そこで別の定義、説明、「妖怪とは、日本人の 『神』観念の否定的な『半円』なのだ(中略)つまり、伝統的神観念では『妖怪』は『神』なのである。(中略)それが人間に対して多少でも否定的にふるまったとき、妖怪研究者からみれば『妖怪』になるという」(48頁)ことになる。落魄の神といふのではない。人間に否定的にふるまふ、悪さをする、さうすると妖怪なのである。ただし、誰にでもではなく、あくまでも「妖怪研究者からみれば」妖怪なのである。研究者は神と妖怪を峻別するが、普通の人はその違ひにそれほどこだはらないといふことであらうか。「かつて多くのムラやマチで、さまざまな怪異・妖怪伝承が語られていた。それらは人々の生活の一部であり云々」 (117頁)だから、普通の人は研究者のやうに、妖怪を相対化も、客観化もできないのである。いづれにせよ、私程度の妖怪との関はりの人間には、かういふ説明、定義は十分に納得できるものである。 ・そんな妖怪は今もゐる。これも本書のポイントである。それを井上円了のやうに合理的な説明で否定することもできる。その方が話は早い。幽霊屋敷はない、 トイレにはな子さんはゐない……かういへば終はりである。しかしさうはいかない。やはりまだゐるらしい。恐怖を感じさせる様々な空間がなくならないからで ある。「妖怪は人々の心が生み出す存在である。」(163頁)からには妖怪は滅びない。ムラであれマチであれ、大都会であれ、人々は恐怖を感じ、そこから 妖怪は生まれる。そこにはこんな特徴があるといふ。「人面犬などわずかな例外はあるものの、現代の妖怪のほとんどが人間の幽霊(亡霊)なのである。(中略)現代人は動物などの妖怪はいまやすっかり信じなくなったが、人間の幽霊の存在をなお信じる人が多い、ということである。」(185頁)都会にタヌキやキツネはゐないのである。そして、問題はそれだけではないらしい。現代人は「自然を恐れる心を失ってしまっているらしいという」(186頁)のである。それがキツネやタヌキに化かされることを忘れさせたといふのである。闇を消し、自然を壊し、その結果、動物妖怪が消えて……現代はそんな妖怪世界であるらしい。それが副題の「妖怪から見る日本人の心」の一端である。妖怪学がかういふことをも突き詰める学問であり続けるならば、今後更なる隆盛の時代を迎えるかもしれない。小松和彦ほどの人がやるのである。まさか単なる分類学で終はるとは思へないが、更に発展した妖怪学を見たいものである。

Posted byブクログ