現代アジアの宗教 の商品レビュー
朝日の柄谷行人書評から読んでみました。 最近は認識について考えます。世界認識は学問としてあると言われます。多くの人は知識からそういった世界認識をえるのだろうと思います。知識により認識を得る。そしてそういった専門家・知識人の認識こそ真の認識であり正しい認識であるとされることが多...
朝日の柄谷行人書評から読んでみました。 最近は認識について考えます。世界認識は学問としてあると言われます。多くの人は知識からそういった世界認識をえるのだろうと思います。知識により認識を得る。そしてそういった専門家・知識人の認識こそ真の認識であり正しい認識であるとされることが多いです。 僕はそういった認識に疑問を感じます。認識とは自らが世界を認識することによってあるわけであり、そういった認識は悟性からあると考えています。そして悟性とは自らの反省、自己省察によって自らの悟性を使用することによって認識を得る。だから知識はそういった悟性(反省)からの認識によって初めて真理となりえるのだろう。更にそういった真理は悟性の比較・吟味による帰納としてあるえる。だからそこで得られる真理も蓋然的なものとしてあことを知る。そういったこと全てが真理である。 カントが悟性のかけらのない学者と言っている人たちはそういった認識についての吟味を経ていない。専門家や知識人の認識を批判するにはそういった認識の吟味を考える必要があり、それによって悟性による認識、真の世界認識をえると考える。 この本を読んでアジアの宗教が社会主義を経ることにある意味権威を否定し悟性からの認識を得ようとする宗教という運動、又はそういった悟性からの認識から社会を変革していこうとする運動を感じた。 そういった民衆の運動はアカデミズムではないからバカにするようなことはできない。そういった運動こそ悟性からの認識である真の学問であるかもしれないからだ。 カントの言う先ず悟性的人間、次いで理性的人間、最後に学者と言っているがそういった認識があるということをこの本はしめしているのだろうと思う。
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