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民主主義の本質と価値 他一篇 の商品レビュー

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2023/12/29

あらゆる思想はそれが「主義」に淫する時、論理が現実から遊離して自壊する。いかに高潔な理想に導かれたものであってもだ。反発はあるだろうが敢えて言おう。ケルゼンの純粋法学が学としての純粋性を守ろうとして現実との接点を見失ったように、その民主主義論も価値相対主義の呪縛に飲み込まれた。 ...

あらゆる思想はそれが「主義」に淫する時、論理が現実から遊離して自壊する。いかに高潔な理想に導かれたものであってもだ。反発はあるだろうが敢えて言おう。ケルゼンの純粋法学が学としての純粋性を守ろうとして現実との接点を見失ったように、その民主主義論も価値相対主義の呪縛に飲み込まれた。 民主主義にせよ自由主義にせよ、決して「それ自体として」価値があるのではない。当然ながらそこにはプラスとマイナスがあり、現実の状況次第でいつでも反対物に転化する。本書でケルゼンは民主主義の「それ自体としての」価値を極限まで追求した。一言で言えばそれは自己決定ということだ。 もちろんケルゼンはシュミットのように「代表」概念を媒介として治者と被治者の同一性をアクロバティックに仮構したりはしない。本書はそのようなシュミットの形而上学への批判として書かれたものだ。ケルゼンは現実の政治において完全な自己決定などあり得ないことを理解していた。だからこそ政党政治を評価し、妥協を模索するプロセスの中で、自己決定からの乖離を最小化しようとした。その限りで彼は現実を見据えていた。 ただ自己決定そのものを疑うことだけは決してなかった。それは価値相対主義への強固な信念から来る。価値に絶対的な基準がないからこそ自らが価値を選択すべきであると。この場合自己決定という決定のプロセスが全てであり、決定内容の是非を問う超越的な視点は持ち得ない。それはシュミット以上に決断主義的である。その論理的帰結として民主主義が民主主義の名のもとに自らを否定することも許容する。良く言えば知的誠実さの表れだが、厳しく言えば学者の自己陶酔に過ぎない。国民の拍手喝采のもとに政権の座についたヒトラーがワイマール憲法を事実上停止したのが1933年、「民主主義の擁護」が書かれた翌年というのはなんとも皮肉である。しかしケルゼンは戦後本書を改訂しなかった。 価値相対主義を基礎にしたケルゼンの法理論や政治哲学にイデオロギー批判の意義があることは認めよう。日本では訳者の長尾龍一氏がその観点からケルゼンの延命を図った第一人者である。しかしそれは批判すべきイデオロギーとの現実の対抗関係の中で、どれだけ実践的な意味を持つかによって真価が問われる。イデオロギーが相対的なものであるように、イデオロギー批判も相対的であることを免れない。 公平を期すために付言しておくが、政治「哲学」としてではなく、政治「社会学」として本書を読めば、現代の政治状況に照らしても貴重な示唆が含まれることは確かだ。例えば比例代表制による小党分立は決して弊害なのではなく、小異を捨てて大同につく妥協を促すものとしてむしろ利点であるとケルゼンは説く。どこかの国で現実を無視した周回遅れの二大政党制を煽った政治学者に聞かせてやりたいものだ。

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2022/04/10

ワイマールドイツの法学者。議会制民主主義を擁護し、カール・シュミットらを批判する。「現代議会主義の精神史的状況」と合わせて読みたい。 ①②自由(ルソー社会契約論を引用)/国民(創造の共同体など?) 支配からの自由(無政府的)が人間の根源的欲求ではあるが、社会秩序形成においては現...

ワイマールドイツの法学者。議会制民主主義を擁護し、カール・シュミットらを批判する。「現代議会主義の精神史的状況」と合わせて読みたい。 ①②自由(ルソー社会契約論を引用)/国民(創造の共同体など?) 支配からの自由(無政府的)が人間の根源的欲求ではあるが、社会秩序形成においては現実的でなく、万人一致の集団的自律へと変遷する。ただそれも現実的でなく、可能な限り多くの人の自由を尊重する多数決(=民主制)が正当化される。擬制である国民は社会集団を統合する束である。すなわち現実問題として国民は実際には政党・職能集団に分化し、自由の範囲も有権者の枠内にまで縮小されている。 ③④⑤議会 自由という民主制の要請と分業原理の妥協。合議制は進んだ社会では必須のもので、国民意志そのものではないが、社会技術的手段として正当化されるべきと述べている。改革としては国民投票、免責特権廃止、議員無答責廃止(国民からの疎遠性)、職能議会((専門知識)→筆者は議会の下位互換と一蹴)がある。 ⑥多数決原理 国民意志を議会に反映し、多数派と少数派で分けるこの原理は平和的妥協を導く。社会意志形成において共通基盤のもと相互了解のもとで決定に服従する(法の支配)のは漸進的ではあるがマルクス主義と異なり利害調整できる。比例代表制が望ましい。 ⑦民主主義的な立法を行政の枝葉末節に行き渡らせるには、執行部分は民主主義的になってはならない。そのため官僚制という合理的組織は民主主義とセットなのだという。 ⑧統治者の選択 民主制は統治者の不在だからこそ、統治者の選定が鍵となる。権力分立の傾向もある(米国=民主皇帝制)が、それはとどのつまり統治者を複数選んでいるということである。そこでは専制国と違って統治者の責任や交替が存在し、広い基盤において選定を進めるということだ。そのためには教育が必要だが、プロレタリアはその準備ができてないので成功しないだろうといっている。 「被治者の団体から複数の統治者を選ぶ独自の方法」 ⑨形式的民主主義と社会的民主主義 社会主義において本来は民主主義によって(圧倒的多数の労働者の支持を得て)経済平等が実現するはずなのに理論が破綻したという現実において、独裁制を指向する。 ⑩民主主義と世界観 民主主義は国家形式を決めるもので中身を決めるものではない。民主主義を正当化する根拠に「国民が絶対的な真善美がわかるから」というものがあるが、それは絶対的権威が存在することを前提としているからで、政治的相対主義に立った上で粘り強く妥協していくことが求められていると語る。 民主主義の擁護 絶対的価値観を持つプロレタリアとブルジョアに攻撃されながら民主主義は没落を始めるが、その自殺行為を容認する悲痛な文章。 前提知識が圧倒的に足りてなかったので苦労した。特に前半はルソーが分かっていればよかったと思う。議会制民主主義者の肯定側の主張なので反対派を読まないと何とも言えないが、民衆が本当に自由を求めているのか、国家において国民としての一体感がないところ(対話不能)はどうなるのか、一般的に民主主義と立憲主義は対立するものだが、民主主義の中に少数者保護が内在しているという考え方だと憲法の捉え方も変わってくるのか、など疑問はつきない。一通り勉強した後に再度読むと文脈が理解できそう

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2020/11/14

アメリカ大統領選挙や大阪都構想住民投票など何かと分断が話題になるが、今一度民主主義というものを根本から考えてみるために読んでみるのが良い。

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2022/05/08

その昔、ゼミの先生から「ケルゼンは哲学が弱い」と言われた記憶あり。 読みもしないのに、横田喜三郎の『純粋法学』、清宮四郎の『一般原理』など購入して本棚に並べておりました。 鵜飼信成さんがケルゼンのハーバードでの講義を聴講されたとか、それも日米開戦でケルゼン手書きの講義案を贈られた...

その昔、ゼミの先生から「ケルゼンは哲学が弱い」と言われた記憶あり。 読みもしないのに、横田喜三郎の『純粋法学』、清宮四郎の『一般原理』など購入して本棚に並べておりました。 鵜飼信成さんがケルゼンのハーバードでの講義を聴講されたとか、それも日米開戦でケルゼン手書きの講義案を贈られたそうな、ドラマですねぇ。

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2018/08/05

ケルゼン 「 民主主義の本質と価値 」 自由、国民、多数決原理 の章は 今まで あえて 見なかった部分を見せられた感じ。民主主義の正当性、不可避性、限界を理解した 自由 *社会による拘束の否定→その拘束の一形態へ 意味が変化 *政治的自由=自己の意志で 社会秩序に服従 多数...

ケルゼン 「 民主主義の本質と価値 」 自由、国民、多数決原理 の章は 今まで あえて 見なかった部分を見せられた感じ。民主主義の正当性、不可避性、限界を理解した 自由 *社会による拘束の否定→その拘束の一形態へ 意味が変化 *政治的自由=自己の意志で 社会秩序に服従 多数決原理と自由 *多数決原理は 自由の理念であって 平等の理念ではない *万人が自由であり得ないとするなら 可能なかぎり多数の者が自由であるべき 民主制と自由 *国家そのものが 支配主体〜人間による人間支配を隠す *国民は一般意志によってのみ自由〜一般意志を拒否する者には国家意志を強制〜それは自由となるための強制 民主主義とは *国民による国民の支配 *国民が団体意志を創造し、服従する国家形態、社会形態 *社会秩序を創造する一つの形式 多数決原理 *多数者の権利は 少数者の存在権を前提としている *団体意志と個人意志の一致部分を大きくすることが 自由の価値の最大限の実現 *規範服従者を多数者と少数者に区分し 全体意志の形成に際して 妥協の可能性をつくる

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2018/07/29

ケルゼンは、議会主義は民主主義の理念と現実の妥協の制度であるという。 民主主義では、治者と被治者の意思の一致を要求する。それは人間の本性である自由を、できるだけ自分以外に支配されないことようにする制度である。議会制では、人を規制するルールである法律は「国民の代理人」である議会にお...

ケルゼンは、議会主義は民主主義の理念と現実の妥協の制度であるという。 民主主義では、治者と被治者の意思の一致を要求する。それは人間の本性である自由を、できるだけ自分以外に支配されないことようにする制度である。議会制では、人を規制するルールである法律は「国民の代理人」である議会においてのみ作られる。そして、国民はその意志を議会においてのみ議会を通じてのみ表明できるという。 しかし少し考えればわかるように、実際には現実上の必要性から多数決原理や間接制が採られ、その結果上述の「治者と被治者の一致」という理念は減殺されている。 ケルゼンの面白いところは、議会制の本質は代表制ではないとするところだ。議会制はあくまで代表制の擬制であり、実際は「国家秩序形成のための社会技術的手段」であるとする。すなわち、議会制は理想的な民主主義ではないかもしれないが、独裁制や職能議会といった他の機構よりはマシであるという。そして、議会制は(運用次第では)その理想を一番達成できるものであるとして議会制を擁護しする。 彼に言わせれば、議会制の本質は、現実的には多数派と少数派を包摂して社会的統合を図ることである。よって、真理の相対性を受け入れ、少数派の意見に耳を傾け、妥協によって政治を行う必要性があると主張する。 本著では議会制を積極的に擁護しきれておらず、隔靴掻痒の感があるが、それはケルゼン自身も自覚しているようだ。 論敵であったシュミットは議会制に失望して後にナチスに下ったが、ケルゼンは最後まで議会制にこだわり続けた。しかし、民主主義と議会制の関係に対する視点や、現実(当時)の議会への問題提起など、2人の主張はある部分まで似通っているように思える。読み比べてみると面白い。

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2016/05/30

ケルゼンの論考を読むのは初めてですが、民主制の本質を論じ、絶対的価値の想定に基づく独裁を批判するもので、共感しました。

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2016/02/15

ワイマール期に書かれた民主主義賛歌の表題作と、ワイマール政治が崩壊した時期に呻き声のように書かれた『民主主義の擁護』の二篇からなる小冊。この組み合わせが何とも... 議論の前提とか考えたらそれだけで講義になるのですっ飛ばすとして、民主主義のそもそも論を考える一冊である。絶対的価値...

ワイマール期に書かれた民主主義賛歌の表題作と、ワイマール政治が崩壊した時期に呻き声のように書かれた『民主主義の擁護』の二篇からなる小冊。この組み合わせが何とも... 議論の前提とか考えたらそれだけで講義になるのですっ飛ばすとして、民主主義のそもそも論を考える一冊である。絶対的価値を否定し、議会制民主主義がもたらす妥協に価値を認めた。それを単に多数派批判のみならず、少数派批判にも使うのがいかにも相対主義らしい。 プラトン『国家』の民主主義=ポピュリズムという批判に感化された人こそ読むべき一冊かもしれない。

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2015/09/27

学生時代から岩波文庫の西島芳二訳に親しんできたが、一度改訳したとはいえ初訳昭和7年という訳文の「生硬」さは蔽い難かった。そのため、この度ケルゼンやシュミットの研究で名高い法哲学者長尾龍一と明治大学大学院植田俊一郎との共訳に改め、更に「民主主義の擁護」をも併録して上梓したものである...

学生時代から岩波文庫の西島芳二訳に親しんできたが、一度改訳したとはいえ初訳昭和7年という訳文の「生硬」さは蔽い難かった。そのため、この度ケルゼンやシュミットの研究で名高い法哲学者長尾龍一と明治大学大学院植田俊一郎との共訳に改め、更に「民主主義の擁護」をも併録して上梓したものである。もともと長尾は別著で「民主制の本質と価値」と「民主制の擁護」を訳出しているが、今回は再度原著に当って訳文を再検討し、まさに「新訳」に相応しく読みやすい文章になっている。内容については今更蝶々する必要もないだろう。ワイマール共和国が終焉を迎えつつある時代に、相対主義的世界観に立脚する民主主義をいかに擁護するのか。苦悩するケルゼンと相見えることは、現代民主主義にとっても無意味ではあるまい。

Posted byブクログ

2015/09/25
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

読み直したさ:★★★ ・全員一致で成立し,多数決によって存続していることは,「自由」の意味が変遷したことを意味する。 ・多数決原理は平等によって導かれるのではなく,「万人が自由ではあり得ないとすれば,可能な限り多数の者が自由であるべきだ」,「可能な限りの少数者が,その者の個人意志と社会秩序の一般意志との相克に陥らないようにすべきだ」という前提から導かれる。p.23 ・自由概念が「国家の支配からの個人の自由」から「個人の国家支配への参与」と変遷すると,自由主義〔国家秩序がそれを創造する個人をどこまで支配するか,どこまで個人の自由に介入するかの問題〕と民主主義〔国家秩序への服従者たちが国家秩序創造に参与する度合い〕とは別問題となる。 ・法令違憲においても,付随的違憲審査権のもとで判断がされるが,あくまで立法事実のみが考慮されることからすると,少数者の人権を考えているのかもしれない。 これら少数者の人権を保護することで,むしろ「団体意志形成における全員一致への方向」をさらに推し進めることができる。p.75 ・民主主義に関して論じるときは,大抵あれ,あの相互的了解のための前提として,ある程度の社会の文化的同質性,特に言語の共通性が共有されているのだろうなあ。p.86–87 他にも色々あるけど読書メモを読み直すこと。 〈感想〉 民主主義とは何か。イデオロギーとしてではなく,現実の。この分析手法はデューイとかなり近い。 一文一文が明晰であり,論理明快,また読み直したい。

Posted byブクログ