アウシュヴィッツを志願した男 の商品レビュー
朝日新聞の書評を見て、図書館で予約をしたのだが、少し待っている間に、内容の紹介を忘れてしまい、タイトルを見て、「アウシュヴィッツに志願したポーランド人」ってナチス側についたポーランド人か?と全く逆に思い、本を開いた。 つまり全くピレツキのことは知らなかったわけで、大変勉強になった...
朝日新聞の書評を見て、図書館で予約をしたのだが、少し待っている間に、内容の紹介を忘れてしまい、タイトルを見て、「アウシュヴィッツに志願したポーランド人」ってナチス側についたポーランド人か?と全く逆に思い、本を開いた。 つまり全くピレツキのことは知らなかったわけで、大変勉強になった。 収容所の中でも、抵抗組織が作られていたり、外部との連絡ができていたり、驚くことが多かった。脱走が成功したところでは、成功するのはわかってはいるのだが、ホッとした。 収容者内のつらい日々の描写は、他の本などでも読んだり、アウシュヴィッツに行った経験も重なったりで、心が苦しくなる。拷問もまた。 ユダヤ人にとっての強制収容所としか見ていなかったので、ポーランド人にとっての強制収容所を知ることができてよかった。 収容所脱走後、それも戦争が終わってからのことが、ポーランドの現代史をほとんど知らなかった私には衝撃だった。 国を愛する、国を守るということが、どういうことかと考えさせられた。国のため、ナチスと戦っていたピレツキたちが、ナチスから開放されたあと、新政府によって、ソ連の傀儡政権によって、かつての仲間たちによって、反逆者として処刑されていくまでの流れがつらすぎる。要領よく転向する人たち、新しい政府に逆らえず流されていく大衆。人間って悲しいなと思う。 強い権力を持った体制と戦うことの大変さ。命を賭けてまで戦うという手前で、もっともっと手前でやはり食い止めないといけないんだと思う。 たまたま(なのかどうか)、今DVDで映画「グッドラック&グッドナイト」を見始めたのだが、これもつらすぎて(多分生命の危機まではいかないと思うのだが)、一旦止めて、これを書いている。 この苦しさは、遠い過去のこと、遠い国のことではなく、今この時代、この日本のことと重なるからなのだ。 2年前、アウシュヴィッツを見学したとき、ガイドの中谷さんが、「今私たちがアウシュビッツから何を学ぶべきか?今の日本の現状と当時のドイツの状況とは決して離れてはいない」とおしゃっていたのが忘れられない。 そして「傍観者ではいけない。傍観者は賛成しているのと同じだ」という言葉が、今の私の小さな行動を支えている。 こんな感想を書くほどの読書体験になると思わず読み始めたのに、読み進めていくうちに、いろいろな思いが私の中で混じり合い、まとまらない。 まとまらなくてもいいので、ずっと考え続けたい。
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ヴィトルト・ピレツキ。ポーランド軍の大尉である。 日本ではあまり知られていない人物だが、実のところ、本国・ポーランドでも死後、長く、その生涯が正しく知られることはなかった。 国を愛した彼が、1948年に剥奪された名誉を回復されたのは、その42年後、1990年のことだった。名誉とと...
ヴィトルト・ピレツキ。ポーランド軍の大尉である。 日本ではあまり知られていない人物だが、実のところ、本国・ポーランドでも死後、長く、その生涯が正しく知られることはなかった。 国を愛した彼が、1948年に剥奪された名誉を回復されたのは、その42年後、1990年のことだった。名誉とともに命を奪われた彼自身はそのことを知る術もなかった。 本書は、ポーランドをよく知る法学博士・平和研究者が、ピレツキの数奇な生涯を、その遺児らの証言を交えつつ、日本向けに紹介するものである。 今では祖国の英雄として知られ、学校や通りに彼の名がつくほど顕彰されているピレツキとはどんな人物だったのか。その波乱と困難に満ちた足取りは、ポーランドのたどった苦難の道のりと重なる。 ヴィトルト・ピレツキは1901年、ロシア領で生を受ける。ピレツキ家はポーランド小地主階級の家柄だったが、ヴィトルトの祖父がロシアに対する武装蜂起に連座して不動産を没収され、ロシア内地へと移住していたのである。当時、ポーランドはロシア・プロイセン・オーストリアの三大国により分割され、独立国家としての地位を失っていた。 後、ヴィトルトは幼時のうちに母に連れられ、再びポーランドへと移住する。 愛国的な非合法組織であったボーイスカウトで野営キャンプや軍事訓練を受けた彼は、長じて軍人となる。1939年、独ソの侵攻に伴い、ポーランド国家は消滅し、パリ(後にロンドン)に亡命政府が生まれる。ピレツキは武装地下組織の創設に奔走し、レジスタンス活動に身を投じる。ピレツキらの組織は、亡命政府に与するものであった。 アウシュヴィッツを初めとする収容所は、初期の頃は主に政治犯が送られる場所であり、ユダヤ人はさほど多くはなかった。仲間が送られたアウシュヴィッツの実態を知るべきだという議論が高まり、ピレツキは、任務として、アウシュヴィッツへの潜入を志願する。偽名を用いてわざと逮捕され、中の状況を探るというきわめて危険な任務である。 潜伏すること実に948日。危険をくぐり抜け、内情を探り、収容所内で地下運動に参加する仲間まで得た後、ピレツキは2人の仲間と、アウシュヴィッツからの脱出に成功する。 1943年のことだった。 何とかワルシャワに戻った彼は、国内軍(AK)に合流し、戦闘に参加する。1944年のワルシャワ蜂起で、圧倒的に戦力に差があるドイツ軍と戦い、AKとワルシャワ市民は敗れる。高見の見物をしていた形のソ連軍は、ことが片付くのを待ってワルシャワを占領する。 ワルシャワ蜂起を指導した亡命政府は、ソ連とはカティンの森事件に関する疑惑(ソ連の捕虜となったポーランド将校が行方不明となり、後、死亡が判明した事件)もあり、折り合いが悪かった。 亡命政府は帰国が叶わず、ピレツキは、ワルシャワ蜂起が失敗した後、今度は反社会主義運動に携わることになる。ポーランドに成立したのは、ソ連の息が掛かった臨時政権。亡命政権の立ち位置がぐらつく中、ピレツキ自身も何と戦っているのか大きな不安を感じていたようだ。 そして遂に捉えられ、名ばかりの裁判を受け、処刑が決まる。 47年の生涯だった。 ピレツキが軍人として優秀であったばかりではなく、妻や子供たちを思い、数少ないふれあいの時を愛情深く過ごした姿も描かれる。 直接ピレツキに関係するわけではないが、背景知識として、コルベ神父や杉原千畝についての記述もある。当時のユダヤ人の置かれた状況を理解する一助となるだろう。 1つ、苦言を呈するとすれば、著者が手がけるノンフィクションとしては初めてのものであることによるのだろうが、ピレツキの視点・著者の視点・第三者的な視点・遺児らの視点の整理がやや甘く、わかりづらい箇所がある。それだけ、この人物を紹介したいという意図が強いということなのだろうが、もう少し読み手への配慮があってもよかったように思う。 なお、ピレツキがアウシュヴィッツに潜入して書いた「報告」について、本文中でも何度も触れられ、引用箇所もあるが、邦訳は出ていないようである。ポーランド語や英訳に関しては、ウェブ上で公開されているようだ。 何が痛ましいといって、「アウシュヴィッツで受けた抑圧は、(臨時政権に)逮捕されてからなされた拷問に比べたら子供の遊びだ」と本人が妻に漏らしていたことだ。そして、アウシュヴィッツは彼の命を奪わなかったが、スターリンの息が掛かった政権は彼を処刑する。国家の敵であり、スパイ行為を行ったとして。 変節を続けた祖国を、なおも愛し、尽くし続けた男。 最後に脳裏をよぎったのはどんな思いだったのだろうか。
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