システィーナの聖母 の商品レビュー
『三十年前、大学を卒業したわたしはドンバスに働きにいき、ドンバスにある炭鉱でもっとも深くてもっとも熱い《スモリャンカ-11》のガス分析研究室の化学技師に任命された』―『燐』 全体主義に対する思いから聞いたことのなかった作家の本を手にする。そこに当たり前のように出てくる、そして最...
『三十年前、大学を卒業したわたしはドンバスに働きにいき、ドンバスにある炭鉱でもっとも深くてもっとも熱い《スモリャンカ-11》のガス分析研究室の化学技師に任命された』―『燐』 全体主義に対する思いから聞いたことのなかった作家の本を手にする。そこに当たり前のように出てくる、そして最近耳にすることの多い地名が、首都で育った主人公にとって有難くない赴任地として響いている。特権階級に与えられるぬるま湯の中で高揚していた社会主義への思いが、中央集権の枠組みを支える地方での現実を目の前にして萎れていく様子が、訥々と問わず語りに語られる。その重く沈んだ雰囲気の中、真の友情、人間性とは何かについて静かに問われる小品に好感を覚える。 例えばショスタコーヴィチが、戦地となった故郷に残り住民を勇気づけるためにラジオで訴え故郷へ捧げる交響曲を書き始めた後、国家によって彼の地から移動させられプロパガンダに利用されていく中でも作曲を続けた時に感じていた思いはどんなものだっただろう。同様に作家ワシーリー・グロスマンが国家に対する忠誠心を疑われた後、指導者の死によって突然救われた時に感じた思いは。それら全てを一人ヨシフ・スターリンへ帰結させることは出来ないとは思うものの、たった一人の権力者が如何に危険な存在に成り得るかを考えないではいられない。 『いまや通常の生活とは異なり、人間の決定や行動が計器の針や装置の数字だけで決められていた。いまや高度・速度・圧力・緯度・経度・磁気修正といったものが人間的な情熱や思い出や疑念や愛着にとって代わり、計器類の大小の表示盤の赤や青黒い色の針、光っている数字が、その複雑な世界を表現していた。飛行士たちの心の動きや呼吸は、サイン波の動き・対数のずれ・計測器の示度・電磁場の強さの変化などのたんなる数学的関数になってしまった』―『アベル(8月6日)』 しかもそれは社会主義や共産主義を奉じる国家に限られる危険性ではない。グロスマンがこれらの短篇を書いてから半世紀が経つ世の中でも、同じような価値観が、同じように人間を数字に置き換える見方が氾濫している。むき出しの欲望が、それらしい倫理スローガンをまとう振りさえ見せずに跋扈する資本主義の世界にも、その獣のようなモノは存在し得る。全体主義の支配する社会に絶望したグロスマンの視線は冷静に世界の構図を見極めようとするが、救いの光は容易には輝かない。 『そいつ―自由に対する人間の卑しくて愚かな希求は、東や西から進んでくる戦車や大砲よりも弱いものではない!自由―それは悪魔の第一番の売春婦だ!』―『動物園』 『彼は自分自身の影となった。この生きた灰色の影は、もはや自分自身のぬくもりも食べ物と安らぎによる満足も感じていなかった。機械的に脚を動かしながら氷に覆われた道を歩いていようが、うなだれて立っていようが、彼にはどうでもよいことであった』―『道』 自由こそが人を際限のない欲望へと導くのだとするグロスマンの言葉は、社会主義プロパガンダへの皮肉とも思考の末にたどり着いた結論とも読めるけれど、社会の問題を人間の根源的な希求欲に帰結させることには躊躇を覚えるつつ、しかし、その警句の持つ力は認めざるを得ない。そしてそれを認めた後に残されている道の薄暗さには怖気を覚えるのみ。その道をラバのようにこの作家が歩んでいたのかと想像すると、改めて人間(の生み出す正義)というものの恐ろしさに思いが至る。 『不死といわれる山々は骸骨になるにまかせておけばいい。だが、人間は永遠に続いてほしい。アルメニア語を知らないアルメニア語翻訳家からのこの一文を、受けとってほしい。きっとわたしは、多くのことを支離滅裂に、しかるべき語り方でではなく語ったに違いない。筋道立ったことも支離滅裂なことも、すべてをわたしは愛情をもって語ったのである。こんにちは(バレーヴゼス)― アルメニアの人たち、そしてアルメニア人でない人たち、あなた方に幸あれ!』―『あなた方に幸あれ!(旅の手記から)』 スターリン死後に書かれたというこれらの短篇や紀行文の中で言及される人物たちの死。そこに是非の判断を作家が下している訳ではないのだが、ものごとを単純明快にしたがる心は因果応報のような判定を下してしまうだろう。だが、決してコトはそう単純ではない。その葛藤がアルメニアへ旅する作家の紀行文の中に、言葉の解らぬ異邦人としての戸惑いに重ねる形で描かれる。一見したところ冗長な紀行文のようでありながら、そこに込められた願い、あるいは祈りのようなものがグロスマンが微かに見出した救いなのであろうと、読了後に思い返す。
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