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もっと知りたい広島県の歴史 の商品レビュー

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2016/07/18

■天文10年(1541)毛利元就は大内氏と結んで安芸の守護だった安芸武田氏を滅ぼし広島湾頭の太田川河口の佐東の地を得て直轄地とした。さらに瀬戸内沿岸へ,「佐東普請」と呼ばれた太田川河口における新城築城が始まったのは,孫の毛利輝元時代の天正17年(1589)4月。同年7月の輝元書状...

■天文10年(1541)毛利元就は大内氏と結んで安芸の守護だった安芸武田氏を滅ぼし広島湾頭の太田川河口の佐東の地を得て直轄地とした。さらに瀬戸内沿岸へ,「佐東普請」と呼ばれた太田川河口における新城築城が始まったのは,孫の毛利輝元時代の天正17年(1589)4月。同年7月の輝元書状に「佐東廣嶋」とあり,これが今のところ「広島」の初見史料とされる。 ■県内最古の本格的な寺院は毘沙門山からほど近い三原市立本郷中学校の東隣にある横見廃寺である。 ■近世になると,安芸・備後を領した福島正則によって広島城下に仏護寺を頂点とした真宗寺院による寺町が形成され,安芸門徒はいよいよ隆盛を誇った。一方,芸備の農村では17世紀末頃から「講中」と呼ばれる安芸門徒独自の信仰集団が形成された。 ■明治2年(1869)6月,版籍奉還により諸大名は天皇へ領地と領民を返還する。広島藩主の浅野長勲(ながこと)も他の藩主たちと同様に殿様の身分から藩を治める役人の「知藩事」となった。そして明治4年7月廃藩置県。長勲は他の知藩事たちと同様に職を免ぜられ東京移住を命じられた。 ■広島のお好み焼きの元祖は昭和25年道路沿いの屋台で生まれた。東京にお好み焼きが登場したのは昭和20年。大阪は23年。 ・広島がやや遅かったのは地方都市の広島では小麦粉の入手が困難だったからといわれている ・少ない粉でボリュームを出すには,具材を挟む重ね焼きが最適だったから ・屋台が出たのは中央通り(昭和25年は中央通の拡幅工事完了の年) ・屋台なので水は近くの公園が頼りで洗い物もままならないため,鉄板から直に食べるスタイルが生まれた ・当初は市内西部産のネギを入れていたが値上がりでキャベツに代わった ・昭和30年頃までには同じ屋台で売っていた焼きそばが合体した ■明治31年(1898)大崎下島にある大長村が和歌山県からネーブルの苗木を購入した。当時は名産の「大長みかん」も誕生しておらず三百年の固有種があるのみ。明治27,28年の日清戦争でミカンの需要が激増し,品種改良と増産が急がれた。この時の苗木にレモンが3本混ざっていて試しに植えると島の気候によく合っていて,大正3年には県全体で11ヘクタールにまで増えた。 ■毛利元就の「三矢の教え」の逸話は有名だが後世の創作。元となったのは元就が三人の息子にあてた書状「三子教訓状」とされる。「三子教訓状」は14条からなりきょうだいが協力して毛利氏存続に努めるよう諭したもの。

Posted byブクログ