現代の問いとしての西田哲学 の商品レビュー
従来の西田哲学研究は、宗教哲学の観点からなされたものが多かった。著者はこうした傾向から距離を取って、「学問論」という観点から西田幾多郎の思想を読み解こうとしている。著者のいう「学問論」とは、近代以降の西洋哲学が主題としてきた「知」の根拠づけの試みを意味している。 フッサールもま...
従来の西田哲学研究は、宗教哲学の観点からなされたものが多かった。著者はこうした傾向から距離を取って、「学問論」という観点から西田幾多郎の思想を読み解こうとしている。著者のいう「学問論」とは、近代以降の西洋哲学が主題としてきた「知」の根拠づけの試みを意味している。 フッサールもまた、こうした「知」の根拠づけをみずからの課題として引き受けた哲学者の一人である。彼は当初、純粋意識の領域に立ち返ることで、私たちがもっているあらゆる「知」の根拠づけをおこなうことができると考えていた。だがやがて、そうした反省的意識による「知」の究極的な根拠づけが不可能だということが明らかになる。後期フッサールの「生活世界」の概念は、反省的・主題的な意識の背後にあってそれを支えている非主題的な世界理解に目を向けるために考え出された概念だということができる。 さらにその後の現象学の展開は、非主題的な世界理解だけでなく、非主題的な自己理解が哲学的反省を可能にしているということに向けて思索を進める。たとえば「現われ」と「隠れ」の同時性についての議論は、こうした問題へのアプローチにほかならない。著者はこれらの現象学の動向を「媒介性の現象学」と呼び、西田哲学のうちにそうした現代の現象学に呼応するような議論が見られると言う。 西田は「自覚」から「場所」へと思索の展開してゆくなかで、私たちの反省の働きを「自己の中に自己を映す」と定式化した。著者によれば、ここにはけっして自己を対象化することのない意志がみずからを自覚する働きへの洞察が認められるという。さらに後期の西田は、それまでの「自覚」の静態的分析から、「自覚」の動的構造の解明へと議論を進めた。そこでは、私たちの自己が世界の中で行為することにおいて「自覚」が成立するという、いわば「生命の自証」ともいうべき考えが見られる。著者はここに、現代の「媒介性の現象学」と同様の問題圏で西田の思索が展開されていることを見ようとしている。
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