大東亜戦争肯定論 の商品レビュー
漫然と書名を見れば「所謂“右”な論?」というように感じられるかもしれないが、必ずしもそうでもないと思いながら読んだ。巻末の解説迄含めて510頁にも及ぶ、文庫本としては少しボリューム感の在る1冊だ。ゆっくりと紐解いて読了に至ったところである。 林房雄(1903-1975)という作家...
漫然と書名を見れば「所謂“右”な論?」というように感じられるかもしれないが、必ずしもそうでもないと思いながら読んだ。巻末の解説迄含めて510頁にも及ぶ、文庫本としては少しボリューム感の在る1冊だ。ゆっくりと紐解いて読了に至ったところである。 林房雄(1903-1975)という作家が在る。本書の著者である。 かの三島由紀夫(1925-1970)が、様々な作家の作品等について綴っているモノに触れた際、その交流のこと等も交えて林房雄に関して色々と語るような文章に触れた。それを通じて林房雄に興味を覚えた。 そして手軽に手にして読む事が叶いそうな本を探してみた中、本書に出会った。更に、歴史に関して論じるというような内容も非常に興味深い。 著者が言う「大東亜戦争」という概念である。これは欧米諸国のアジア進出の経過の中に日本の姿が登場する機会が目立ち始めた1840年代頃から、幕末、明治、大正、昭和の経過が在って第2次大戦に敗れてしまう頃迄の「100年間」を示す概念ということになる。 100年間、戦争を絶え間なく続けていたということではないかもしれない。が、後になって振り返ると「戦争の100年間」と評し得るような状態、戦いそのものと戦間期というような様子が続いていたとしている。 本書は1965(昭和40)年を伺うような頃、所謂「戦後20年」というような時期に登場している。著者は60歳代に差し掛かっている。産れて間もなく日露戦争で、様々な軍事行動も断続し、第1次大戦が在って、中国大陸での戦争に太平洋戦争と「人生の相当な部分で、戦争という様子が見受けられる」という情況である。こういう様子から「戦いそのものと戦間期」というように、取上げた100年間程度という時代を評しているのである。 欧米諸国のアジア進出の経過の中、日本の中で、同時に対外関係の中で様々な考察すべき事柄が発生して来た。そうした、積上げられた経過で、日本は独立を護ろうとし続けていた。というのが『大東亜戦争肯定論』という書名の意味することなのだと思う。 「肯定論」とは言うが、何かを称賛しているようなことでもないように読んだ。この時代の、或いは本書の登場からもっと先の時代ということになる現在でもそうなのかもしれないが、「一億総懺悔」的な空気感が支配的な中で、「そういうことばかりでもないのではないか?」という論なのだと思う。 そういう全体を通しての基調の下、対外関係の視点を大きく容れた幕末期の事柄、不平等条約を巡る事柄、日露戦争に関する事柄、昭和の動乱に関する事柄、満州に関する様々な事柄、日中戦争に関する事柄、対米英開戦に纏わる事柄等、多岐に亘る事柄が適宜様々な引用も交えて綴られている。 非常に読み応えが在るのだが、中に「その時代の思潮」というようなことを考察するような内容も多く、なかなかに興味深かった。 極々個人的なことだが、この著者は他界して久しい父方の祖母と同世代の人である。ということなので「祖父母世代が考えていたようなことを纏めた」という程度に本書を受け止めたという面も在ったかもしれない。 欧米諸国のアジア進出の経過の中に日本の姿が登場する機会が目立ち始めた1840年代頃から、幕末、明治、大正、昭和の経過が在って第2次大戦に敗れてしまう頃迄の「100年間」を、「1つの時代」というような感で捉えてみるというような本書の論は、登場から半世紀以上を経た現在に在っても有効であるように感じた。或いは「有効」であるからこそ、2000年代に入って本書が出版され、更に2014年に至って自身が手にした文庫本も登場したのだと思う。 或いは著者は、昭和10年代位に表立って言われていた事柄が昭和20年代位に言われなくなり、昭和10年代位に裏で囁かれたような事柄が昭和20年代位に前面に出て来ているという、「総入替」のような様子に違和感を覚えて本書の内容を綴ったということなのかもしれない。 史上の事実は動かない。が、積み上げられた事実を見詰めて思い至る真実には幾つかの姿が在るのかもしれない。そんなことも想った。興味深い1冊であった。
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いつか読まなければとは思っていたが、大部であることと、昨今の「右傾化」を反映してか手頃な類書が巷に出回り始めたこともあり、今まで読まずに済ませてきた。今年は敗戦70周年を迎える。先の戦争を改めて問い直す試みがいろんな形で行われるだろうが、本書の再刊もその機縁となるだろう。出版当時...
いつか読まなければとは思っていたが、大部であることと、昨今の「右傾化」を反映してか手頃な類書が巷に出回り始めたこともあり、今まで読まずに済ませてきた。今年は敗戦70周年を迎える。先の戦争を改めて問い直す試みがいろんな形で行われるだろうが、本書の再刊もその機縁となるだろう。出版当時はかなり物議を醸したそうだが、今読むと過激さは微塵も感じられない。むしろ中国や韓国のナショナリズムへのナイーブな贖罪意識が見え隠れするのが意外ですらある。 大東亜戦争は幕末以来の西力東漸への対抗としての正当なナショナリズムの発露である。それが中国を始めとするアジア諸国のナショナリズムとの不可避的な矛盾・対立を惹起し、その前に志半ばで挫折した。挫折の要因の一つには、大アジア主義、或いは王道楽土の理想を貫徹できなかったことがあるが、それがパワーポリティクス渦巻く歴史の現実というものであり、後知恵で裁くことはできない。大体こういう内容である。 戦勝国の一方的な歴史観に鉄槌を下した功績は多とするも、大上段の書名に期待した現在の読者はやや肩透かしを食らうかも知れない。対米戦争が止むに止まれぬ自衛戦争であったことはもはや常識になりつつある。結果的にであれ、アジアの植民地解放に果たした役割についても誰も異論はない。残るは中韓との関係だが、この点さすがの著者も歯切れが悪い。思うに、彼らのナショナリズムなるものが、果たして著者が暗に想定するような健康な民族精神の発露であったのかどうか。所詮は国内の権力闘争が列強を利用し、また利用されただけではないのか。真のナショナリズムが両国に育たなかったことこそ、日中、日韓の悲劇の根源ではないのだろうか。この点だけを言い募るのは手前勝手な理屈になるが、それ抜きにあの戦争を語ることもまたできないはずだ。 こうした疑問は残るものの、本書の白眉は同時代史としての迫力である。著者は本書に登場する軍人、民間人の幾人かと直接交流を持ち、その空気を肌で感じている。満州国建設に関わった日満の民間人のエピソードを通じて分かるのは、彼らが王道楽土の理想に捧げた情熱が疑いなく真実であるということだ。それだけに、それが現実の荒波の中で覇道政治に転化せざるを得なかった歴史を踏まえるならば、覇道を求める旧いナショナリズムとそうでない新しいナショナリズムは区別できるものでなく、前者の悪魔を見ずに後者に性急に肩入れする軽挙を慎めとの指摘は重い。
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再読。「東亜百年戦争」という捉え方は面白いですね。内容は穏健です。決して過激な書ではありません。この本に記載されている中共やソ連についての記述を今読むと、予言書のようです。ナショナリズムについての言及は秀逸です。
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林房雄が1963年~1965年にかけて「中央公論」に連載した同名記事をまとめたもの。本書では、大東亜戦争の開始を1845年の幕末まで遡り、日清・日露・日支戦争などを含む1945年までの100年間に起きた戦争を、アジアを代表する日本の西欧勢力の東漸に対する反撃として「大東亜百年戦争...
林房雄が1963年~1965年にかけて「中央公論」に連載した同名記事をまとめたもの。本書では、大東亜戦争の開始を1845年の幕末まで遡り、日清・日露・日支戦争などを含む1945年までの100年間に起きた戦争を、アジアを代表する日本の西欧勢力の東漸に対する反撃として「大東亜百年戦争」とし、本質は解放戦争であると主張しました。言われているほど、突拍子もないことを主張しているわけではないと感じました。内容とは別にして、当時を生きていた人たちの考えを直接読めるのは良い。
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歴史を見据える小説家の眼が「東亜百年戦争」を捉えた。私はつい先日気づいたのだが、ペリーの黒船出航(1852年)からGHQの占領終了(1952年)までがぴったり100年となる。日本が近代化という大波の中で溺れそうになりながらも、足掻き、もがいた100年であった。作家の鋭い眼光に畏怖...
歴史を見据える小説家の眼が「東亜百年戦争」を捉えた。私はつい先日気づいたのだが、ペリーの黒船出航(1852年)からGHQの占領終了(1952年)までがぴったり100年となる。日本が近代化という大波の中で溺れそうになりながらも、足掻き、もがいた100年であった。作家の鋭い眼光に畏怖の念を覚える。しかも堂々と月刊誌に連載したのは、反論を受け止める勇気を持ち合わせていた証拠であろう。連載当時の安保闘争があれほどの盛り上がりを見せたのも「反米」という軸で結束していたためと思われる。 https://sessendo.blogspot.com/2018/08/blog-post_7.html
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