新世紀神曲 の商品レビュー
「新世紀神曲」には、掲題作以外にも「復活の批評」と「出日本記」の2作が収録されている。その中の「復活の批評」で以下の様に述べられている。 『資本制の構造を変えないまま、国家や会社に保障を求めることは、別の誰かに犠牲を強いることになる。たとえば、自分を正社員として雇わせることは、...
「新世紀神曲」には、掲題作以外にも「復活の批評」と「出日本記」の2作が収録されている。その中の「復活の批評」で以下の様に述べられている。 『資本制の構造を変えないまま、国家や会社に保障を求めることは、別の誰かに犠牲を強いることになる。たとえば、自分を正社員として雇わせることは、別の誰かからその機会を奪うことを意味する。』p.14 『「よだかの星」。周囲から虐められていた「よだか」が、自らもまたカブトムシを喰い殺していた。殺したくも殺されたくもない。けれども殺している。この痛みから出発する思考はどこまで行くのか。』p.15 人は収奪することで生きている。何かを犠牲にし、食べなければ生きていけない。それを雁屋哲はブログにおいて『人間は命有るものを食べなければ一日も生きて行けない。それが、人間の背負った「原罪」であると私は思う』[*1]と述べている。 今の状況において、この「原罪」を背負い何かを犠牲にして生きていくことは、それしかない道のように思える。しかし、これは自分自身が犠牲にされないという前提にいるからこそ出てくる考えなのではないのかという疑問がある。 古来においては、生きていくために人身御供として神に差し出される人間もいた。その段階においては、「人間が生きるために人間を犠牲にする」のである。 手塚治虫の「ジャングル大帝」の最後で、主人公であるライオンが人間を活かすために犠牲となった。そこで描かれているのは動物と人間という関係ではあるが、一つの主体間の関係として見ることも可能だろう。手塚治虫は、人間が、自分自身が殺されることすら容認する思考に行きついたのだろうか。 生きるために他を殺すことを容認した人間は、他を活かすために自分が殺されることを容認できるのだろうか。人間以外を殺すことで生きることを肯定した人間は、人間自身を殺すことで生きることも肯定できるのだろうか。『殺したくも殺されたくもない。けれども殺している』のである。 *1 雁屋哲の今日もまた 「ますます募る、反捕鯨カルトの狂気」 http://kariyatetsu.com/blog/1124.php 2014年2月27日取得
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