江戸端唄集 の商品レビュー
・ 試みに「日本歌謡辞典」で端唄を引いてみる。江戸端唄である。「文化・文政期に江戸で円熟、大成した俗謡で幕末にかけて流行した。この端唄から出たうた沢や清元関係者の手遊びから生まれた小唄とともに三味線歌曲の小品。上方端唄に比べて明るく軽妙な味を持つ。」(358頁、傍点省略)あまりよ...
・ 試みに「日本歌謡辞典」で端唄を引いてみる。江戸端唄である。「文化・文政期に江戸で円熟、大成した俗謡で幕末にかけて流行した。この端唄から出たうた沢や清元関係者の手遊びから生まれた小唄とともに三味線歌曲の小品。上方端唄に比べて明るく軽妙な味を持つ。」(358頁、傍点省略)あまりよく分からない説明だが、小唄やうた沢より端唄の方が古いらしいことは分かる。私はこのあたりの違ひなどは気にせずに何とはなしにきいてきた。ただ、端唄は根岸派とは思つてゐた。だから、歌ひ手が根岸かどうかぐらゐは気にした。それだけなので、基本的にはこの種の唄に関してほとんど何も分かつてゐないのだつた。そんなところに倉田喜弘編「江戸端唄集」(岩波文庫)が 出た。ここに端唄のきちんとした定義が出てゐるかと期待して見れば、曖昧な説明に終始するばかり、全く釈然としない。そこで大胆に途中を省略して引用する と、「端唄と俗謡は、こんにち、一括して端唄と呼ばれているが、むかしは区別されていたのではないか。(中略)ただし、この区分は至ってあいまいである。 古い唄本では『潮来節』や『露は尾花』は端唄となっているので云々」(231~233頁)といふことで、結局、端唄は極めて定義しにくい曖昧なものではな いかといふあたりに落ち着きさうである。さう、潮来節や都々逸が本書には出てくるのである。私は潮来は潮来、都々逸は都々逸であると信じて疑はなかつた。 端唄に潮来や都々逸が含まれるとはなぜか、である。極言すれば、端唄は何でもありの世界ではないか。本書の目次を見る。大きく「端唄百番」「俗謡十種」「古典文芸二題」に分かれてゐる。その俗謡は大津絵節に始まり、以下、伊予節、とつちりとん、二上がり新内、木遣りくずし等々と続く。最後の古典文芸の一つは「都々逸百人一首」である。相撲甚句もある。流行り歌ばかり、端唄が節の名でないにしても、これらを皆含んでしまふのが端唄であるとすれば、端唄とは ほとんど流行り歌の異称、総称ではないかとさへ思へてくる。もしかしたらほとんど定義不可能なものかもしれない。ただし、wikiによれば、「小唄は爪弾 きであるのに対して端唄は撥を使う。また、節回しも若干の相違があり、うた沢に比べてサラリとうたうのを特徴とする。 鼓や笛といった鳴り物付きで唄われることが多い。」さうであるから、端唄の方が小歌やうた沢より豊かな響きを持つと言へるかもしれない。それでもやはり曖昧である。端唄とは何かが私には分からない。 ・「端唄百番」の「潮来出島」を見る。有名な「いたこ出島は まこののうちに あやめさくとは しほらしい」(50頁)が本歌であり、替へ歌もいくつか並ぶ。替へ歌ができるほど流行つたのである。都々逸はもつと流行つた。「俗謡十種」に出てゐるのは都々逸坊扇歌の自作に始まり、音曲入り等が並 ぶ。巻末の「都々逸百人一首」、これは百人一首の都々逸版パロディーである。巻頭の「秋の田の」は「小田のかり庵に ふくとまよりも 荒いお前の すて言葉」(200頁)となる。本歌の語を用ゐて七七七五の恋歌に変へられてゐるのである。いかにも江戸の産、戯作の趣である。編者が「解説」の初めに「題材は身のまわりの些事であるが、とりわけ『恋』の唄が多い。」(229頁)と書いたのはかういふのをいふのであらう。平安朝の恋歌とは違ふ、などと考へながら これを見てゐるとおもしろい。端唄の定義は気にせずに、この流行り歌を楽しめば良い。それでこそ本書が生きるといふものである。なほ、本書のいくつかの唄を岩波書店のホームページできくことができる。詳細は本書解説にある。ご試聴を。
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