英語教師は楽しい の商品レビュー
28人の現役中学・高校教師、大学の先生などが、「『英語教師は楽しい』のコンセプトの下に、英語教師あるいは日本の英語教育への応援歌を寄せ」(p.98)たもの。応援歌というか、自らの経験談や信念を語ったもの。 語研やELECなどの研究会、英語教育本の著者など、著名な先生も多いが、...
28人の現役中学・高校教師、大学の先生などが、「『英語教師は楽しい』のコンセプトの下に、英語教師あるいは日本の英語教育への応援歌を寄せ」(p.98)たもの。応援歌というか、自らの経験談や信念を語ったもの。 語研やELECなどの研究会、英語教育本の著者など、著名な先生も多いが、半分くらいはおれの知らない先生が書いていた。できれば、なぜこの人たちなのか、どういう人たちなのかという点をせめて「著者紹介」にでも書いて欲しかったが、「著者紹介」にもなっていないような「紹介」が巻末に載っていて、結局すごい先生たちなんだろうけど、誰なんだろうこの人たち、というモヤモヤした感じになってしまった。なかには肩書きの1つに「幸福研究家」とか書いてある人もいて、どうしちゃっているんだろうとか思った。さらには、「迷い始めたあなたのための教師の語り」というサブタイトル、"No, it isn't bad at all to be an English teacher in Japan"という英語のタイトルがついているが、応援歌として寄り添う、というよりは上から目線で諭してやるという感が強く出てしまっていて、内容はともかく編集の仕方がおかしいと思ってしまった。 雑誌「英語教育」で紹介されていて、購入した。内容自体は、もちろん読んでいて面白いし価値のあるもので、日々の教師生活を振り返るいいきっかけになる本だと思う。授業での指導は人間の指導、生徒指導をかねる、というところが、相変わらず耳が痛い。そういう信念がおれにはあるのか、と自問してしまう。 前から思っていたことだし、どこかのレビューにも書いたかもしれないが、とにかく英語教育はアイデア勝負だという側面が大きいと思う。実際、和田先生や畑中先生の論考ではそういう面が強調されている。そしてそういうアイデアを枯渇させないための心がけや努力、マメさということが上山先生や本尾先生の論考を読むとよく分かる。 一方で、「あの手この手を使って練習をしたり、活動したりすること自体が目的になっているような学びのない授業は、英語を学ぶことはおもしろいと生徒に思わせ、生涯にわたって英語を学び続けようとする意欲を育てることはできないのではないか」(p.19)とか、「授業に『軸』がない状態で、授業にさまざまなアクティビティをたくさん投げ込んでも、一見生徒は活動していても、生徒に骨太の英語力がついていない」(p.97)といったことは極めて正しいように思われ、では「学び」とは何か、目の前の生徒が身につけるべき「英語力」とは何なのか、何をもってその「英語力」が身についたと自他ともに認められるようになるのか、そういうことを考えないといけないと思う。「生徒は、学習が一時的に楽しいかどうかではなく、自分の努力の成果が目で見える形で認識できたときに、『楽しい』と感じている」(p.50)とか、「生徒は自分の力で学んだと感じるとき最も成長する」(p.77)ということをよくよく考えて授業に臨むべきだと改めて思う。 また、柳瀬先生の「グローバル資本主義的英語観」といった英語の貨幣と同じような交換可能体としての存在として認識するが故に起こる「狂騒曲」というのも面白いと思ったし、亘理先生の論考にある「英語で教えるか日本語で教えるか、学習者中心か教師中心かといった浅薄な二項対立を超えた『教師の周到な準備と適切な働きかけが不可欠である』」(p.147)や、鈴木先生の「中庸の英語教育」における「教育に『あれかこれか』の選択はできない」(p.183)というのも、もっともだと思った。 また、明治図書の『英語授業ルール&活動アイデア35』でも同じようなレビューを書いたが、胡子先生の「教育における不易は、『生徒たちは信頼関係のある先生の言うことは聞くが、信頼関係を構築できていない先生の言うことは聞かない』」(p.42)というところが、まったくもってその通りだと思った。授業力を向上させる、という時に、授業規律、信頼関係がはじめに来るのではないかと思う。 最後に、三野宮先生は、自ら「屈折した5ページ」(p.199)と称している通り、この著者集団の中にあって他とは異質な論考を記しており、ちょっと戸惑ってしまう。本当にこれいいのかな、という感じだった。けど「教師を、夢や感情のない、命令すれば動く機械のように扱ってはいけない」(p.203)というのは、今の職場に言ってやりたい、とか思ってしまった。(14/12/30)
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