神学大全(Ⅰ) の商品レビュー
神学大全は全体が三部構成になっており、本書はその第一部、しかもそのごくわずかな抄訳であるが、神の存在論証やトマスの存在論を中心に最も重要なテーマを扱っている。特筆すべきは厳密な原典読解による訳文もさることながら詳細を極める訳注である。これは一般読者にとって有難いことこの上ない。し...
神学大全は全体が三部構成になっており、本書はその第一部、しかもそのごくわずかな抄訳であるが、神の存在論証やトマスの存在論を中心に最も重要なテーマを扱っている。特筆すべきは厳密な原典読解による訳文もさることながら詳細を極める訳注である。これは一般読者にとって有難いことこの上ない。しかもそれがトマス研究の第一人者である山田晶氏によるものとあれば、おそらく専門家にとっても無視し得ない重要文献と言えるだろう。長らく古書市場で入手困難であったのもうなづける。二分冊で少々値ははるが再刊を喜びたい。 「神においては存在と本質は同一である」というのがトマス哲学の根本命題であるが、これについての山田氏の注釈が明晰である。「本質(エッセンティア)」とは「存在者」が「何であるか」を規定するものであり、「存在(エッセ)」とは、それによって「存在者」が現実的に「存在する」ものである。ここでアリストテレスの可能態と現実態の区別を想起してもよいだろう。 「本質(エッセンティア)」はそれ自体としては未だ「あらず」、「ある」ことの可能性を示す静的な概念である。「存在(エッセ)」とはこの可能性を現実的に「ある」ものとする動的な概念である。「神においては存在と本質が同一である」とは、神は「存在」そのものであり、これを限定するいかなる有限なる「本質」もなく、したがって、神の「本質」は無限であり、無限なる「本質」が神の「存在」に他ならない。山田氏はある著書『 トマス・アクィナスのキリスト論 (長崎純心レクチャーズ) 』でこのトマスの「存在(エッセ)」は「いのち」と置き換えることができると述べている。全ての被造物は存在と本質の複合であるが、被造物に「存在(エッセ)」即ち「いのち」を吹きこむことで存在者たらしめるのが、無限なる「いのち」そのものである神なのだ。 全訳は創文社から出ているが、1960年に刊行が開始され全36巻が完結したのは2012年であり、何と半世紀以上に及ぶ壮大な訳業である。その間バトンは高田三郎氏から山田晶氏、さらに稲垣良典氏へと渡されたが、いずれも我が国の中世哲学界の権威である。当然ながらこの全訳はよほどのトマスマニアでない限り、素人が容易に手を出せる代物ではない。本書の初版は1970年で第一部(1〜8巻)の訳業がほぼ完成した段階のものである。続編として第二部、第三部の抄訳が出ることを期待するばかりである。
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とても興味深いし、「中世の覚醒」を読んだあとで、あそこに書かれていた理性と信仰との調和をトマスがいかに求めたか、アリストテレス的なものとキリスト教がいかに出会ったか、の実証と詳細としてとても面白いのだけども、しばらく読めば、その方法論は見えてくる。注も良いので、もっと読めばもっと...
とても興味深いし、「中世の覚醒」を読んだあとで、あそこに書かれていた理性と信仰との調和をトマスがいかに求めたか、アリストテレス的なものとキリスト教がいかに出会ったか、の実証と詳細としてとても面白いのだけども、しばらく読めば、その方法論は見えてくる。注も良いので、もっと読めばもっと楽しいのだろうけども、今、これを最後まで(中公クラシックスの量でも)読みきる時間よりも、別のものを読むのに時間を使いたくなったので中断。プラトン・プロティノス 的なアウグスティヌス と、アリストテレス的なトマス。とても面白いのだけども、次へ行こう。
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トマス・アクィナス(山田晶訳)『神学大全Ⅰ』中公クラッシクス、2014年 『神学大全』は、トマス・アクィナス(1224/25-1274)が1265年ごろローマで書き始め、1272年頃、パリで第三部を着手するが、未完におわった著作だそうだ。第一部「神」は119問、第二部「人間の神への運動」は189問、第三部は「神に向かうための道なるキリスト」で90問、弟子の補遺が99問つけられている。 本書は、序言から第11問までを訳したもの。第一は「聖なる教について」、第二問が神の存在証明、以下、神の単純性、完全性、善一般、神の善性、無限性、内在、不変性、永遠、一性を証明したものである。各問は数項目に分かれている(例えば第一問は十項からなる)。各項は、問い・異論・反対異論・主文・異論答という形で、項目そのものはそれほど長くはない。しかし、専門用語が多く、言っていることの神経が細かいので、読むのがしんどいのは確かである。たとえば、神の存在証明では、アンセルムスの証明を不十分として、トマスは始動因・作出因など五つの方法で論証し、二つの異論に答えている。 基本的には「哲学者」(アリストテレスのこと)にもとづいて、神の創造の部分で自らの思索を展開しているところがトマスの立場なのだろうと思う。 永遠(初めも終わりもない、神の時間)と永劫(創造されたが終わりがない、天使と天体の時間)とか、善の種類だとか、質料にある無限と、形相にある無限のちがいなど、神経の細かい話はたくさんある。。 概念を細分化して議論を精密にしていく手法が、よくあるが、ラテン語など、どんな言語にもあいまいさはつきまとうものだなと思う。
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