線の音楽 の商品レビュー
筆者がクラシック音楽の伝統と真摯に向き合い、その歴史も踏まえながら、自らの作曲に向き合っていることは十分に感じ取ることができた。 音楽の「聴き方」は基本的に受け身である、という指摘にはいささか疑問の思うことがないわけではなかったが、「聴き方」ということに限って言えば、いわゆる現代...
筆者がクラシック音楽の伝統と真摯に向き合い、その歴史も踏まえながら、自らの作曲に向き合っていることは十分に感じ取ることができた。 音楽の「聴き方」は基本的に受け身である、という指摘にはいささか疑問の思うことがないわけではなかったが、「聴き方」ということに限って言えば、いわゆる現代音楽(無調、総音列、音群など)は、聴いていて「感動」を覚えることがあるのだろうかと思ってしまう。感動のあまり、つい涙を零してしまうというような経験は、たぶん「現代音楽」の場合にはないように思う。つまりは、「聴き方」が違うのだ。 でも、音楽というのは、個人的にはエモーショナルなものだと感じている。そういう意味では、そんな感動を感じさせてくれる「現代音楽」の出現に期待したいのである。
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まだちょっとしか聴いたことはないのだが、正直なところ、近藤譲さんの音楽にさほど深い感銘を受けたことはない。 本書は氏の基本的音楽論を展開するものだ。時代は1979年、ベリオらの「前衛の時代」は終わりに向かいつつあった(と思う)。 近藤さんはセリエリズムや音群的音楽(クセナキスなど...
まだちょっとしか聴いたことはないのだが、正直なところ、近藤譲さんの音楽にさほど深い感銘を受けたことはない。 本書は氏の基本的音楽論を展開するものだ。時代は1979年、ベリオらの「前衛の時代」は終わりに向かいつつあった(と思う)。 近藤さんはセリエリズムや音群的音楽(クセナキスなど)を「イディオレクト(個人言語)」と呼んで批判する。では著者の目指すのは「普遍的言語」なのだろうか。しかし本書に「普遍」という語は明記されない。 けれども、実際に近藤さんの音楽を聴いてみると、確かに古びた主情性とも構築性とも意味体系とも隔絶しているものの、聴取にあたって何らかの「作者による説明」を必要とするような、そんな「ふつうの現代音楽」である。では彼が書いたものも結局「個人言語」なのではないのか。 著者は一般の音楽家と違って、ちゃんと論理的で緻密な思考を展開しており、読み応えもあるのだが、結局何を目指すのかという主旨がじゅうぶんに理解できなかった。 ただ「グルーピング」という概念を多用しており、そのへんはちょっと面白かった。 いつか近藤さんの音楽が、私のこころに刺さってくるときが来るだろうか。
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