ユリイカ 詩と批評(1998年6月臨時増刊号) の商品レビュー
作家評論って何となくこんな感じ、作家自身が登場しているところから見るにこれはこれでありということなのかな。 当方からすれば音楽とかスポーツといった、この作家の関心事を含めたもっと大きな描写を読みたかったなぁ。 ここに登場する多分文芸評論家にはちょっとハードル高い要求なのかもしれま...
作家評論って何となくこんな感じ、作家自身が登場しているところから見るにこれはこれでありということなのかな。 当方からすれば音楽とかスポーツといった、この作家の関心事を含めたもっと大きな描写を読みたかったなぁ。 ここに登場する多分文芸評論家にはちょっとハードル高い要求なのかもしれませぬけれども。
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このたび、≪「書くこと」が自分のうえで何を為すか≫という関心から、村上春樹を取り上げることになった。この本(1989年6月)では、巻頭のロングインタビューや、野谷文昭氏の文章をはじめ、よい材料がいくつもみられる。 自分の意識下で動作する、やり直しも取り替えもきかないものが、...
このたび、≪「書くこと」が自分のうえで何を為すか≫という関心から、村上春樹を取り上げることになった。この本(1989年6月)では、巻頭のロングインタビューや、野谷文昭氏の文章をはじめ、よい材料がいくつもみられる。 自分の意識下で動作する、やり直しも取り替えもきかないものが、長編小説には焼き付けられている。それは、自分をしかじかの状況へ追い込んだうえで、ある種見通しもコントロールもきかない「強度的な」世界が出現してくるところで、自分のなかに入ってくるものを次々と捌くというような、スピード作業の結果、できあがるものだ。(ロングインタビュー) 「5月の海岸線」という短編にみられる奇妙な箇所を、初期の長編3部作と引き合わせつつ、村上春樹が自分のうえで実行しようとしたプロジェクトの姿が明かされてゆく。鍵の1つが、「5月の海岸線」にみられる(海岸埋め立てへの)反動的な感情や過去回想が、『羊をめぐる冒険』では、感情のニュートラル化や過去切断を伴った、まったく別の書き物へと転じていることだ。この操作は、村上自身がチャンドラー論のなかで表明している、「都市小説がなしうること」をめぐっての考えと一致するものであるという。(野谷文昭「消えた海岸のゆくえ」) (以下は私の個人的関心の逢着点:) 村上春樹が、自分の書く主人公が、見栄とか嫉妬とか劣等感とかの情念にふりまわされないのは、濁った情念を取り去ったあとにものこる、魂の闇のようなものを扱ってみたいからだ、と説明するとき、私たちは、小説の人物が、「やれやれ」と口にする幾多の場面を思い描いてもよいかもしれない。書き手は、プロット(描かれた状況)に折り込まれた、奇妙な要素を重視している。奇妙な要素との対面は、書き手に、あの独特でユーモラスな比喩をたくさん産み出させる(カメラが寄る、描写の緊張感が高められる)。そして、同時に、人物が「やれやれ」と口にする。≪「情念」によって曇るものが、「異界との交信」によってはクリアになるんです≫(カメラがひく、語りのなかの弛緩が、なにかポジティブなものを引き寄せる)。 諦念とともにあって、不思議にすがすがしさを放つ文体がそこから産まれる。情念の側にとどまる足場のなくなった、都市生活。異界に放り込まれてしまったのだ、という飲み込み方をすることで、生活者の眼球が取り替えられる。
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