ハンス・ケルゼン自伝 の商品レビュー
自伝は文学少年だった少年時代から始まる。奨学金に頼りながら苦学して教授資格を取得、第一次大戦が勃発するとオーストリア=ハンガリー帝国の陸軍大臣付係官に登用され、政府中枢にあって帝国の崩壊を目の当たりにしている。戦後はウィーン大学法学部国法学正教授に就任し、その間もオーストリア共和...
自伝は文学少年だった少年時代から始まる。奨学金に頼りながら苦学して教授資格を取得、第一次大戦が勃発するとオーストリア=ハンガリー帝国の陸軍大臣付係官に登用され、政府中枢にあって帝国の崩壊を目の当たりにしている。戦後はウィーン大学法学部国法学正教授に就任し、その間もオーストリア共和国憲法を起草、同憲法下で創設された憲法裁判所裁判委員も兼任した。その後ケルン大学に招聘されるがナチス政権によって罷免され、身の危険を感じてスイスに脱出。スイスではジュネーブの高等国際研究所に勤務しプラハ・ドイツ人大学でも教鞭をとったが、プラハでも右派学生団体による講義妨害や脅迫を受け、1939年に第二次大戦が勃発するとついに欧州を離れアメリカに移住した。 ケルゼンはもちろん法学者であるが、自伝を読む限り優れた政治的識見(嗅覚)を備えており、旧オーストリア=ハンガリー帝国の連合国家化やチェコスロバキアの連邦制導入を提案するなど、欧州の政治情勢を冷徹に見据えて様々な提言も行っている。彼の述懐によれば、多民族国家オーストリアでの生活が国家の統一性の基礎は人種や言語などの社会心理学的・社会生物学的紐帯ではなく法秩序のみであるとの確信に至らしめたという。しかし、それはあくまで国家本質論としての論理であり、彼は国家の様相を左右する社会的条件についてむしろ極めて敏感であった。そのような能力も、やはり多民族国家オーストリアにおいて培われたものであろう。 なお、巻末の長尾龍一「ケルゼン伝補遺」には尾高朝雄に対する不当な評価を含め納得しがたい記述もあるがここでは触れない。
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