イトマン事件の“へそ" の商品レビュー
繊維の商社 江商で、昭和26年に、仕事をスタートさせた。 東京オリンピック後の不景気に飲み込まれ、兼松に吸収される。 兼松江商となるが、安宅産業に移籍をする。 昭和46年繊維貿易部の織物部長に就任。 その年にニクソンショック。1ドル360円から、308円へ。 田中角栄による日本列...
繊維の商社 江商で、昭和26年に、仕事をスタートさせた。 東京オリンピック後の不景気に飲み込まれ、兼松に吸収される。 兼松江商となるが、安宅産業に移籍をする。 昭和46年繊維貿易部の織物部長に就任。 その年にニクソンショック。1ドル360円から、308円へ。 田中角栄による日本列島改造論により、地価の高騰とオイルショック。 昭和49(1974)年に、低成長時代へと突入。 昭和50年 NRC問題が起こり、安宅産業崩壊に向かう。 昭和52年 住友銀行により、安宅産業が潰される。 その年(1977)に、繊維部門130名が、河村良彦社長のイトマンに救済される。 イトマンは、明治16(1883)年に創立され、危機に瀕した時に 住友銀行常務の河村良彦が出向して、再建する。 昭和53年に燃料部長を拝命する。織物から石油へ。 重油を売り、そして、ガソリンを売るために、伊藤萬石油販売会社を設立。 昭和55年 イトマン化成品燃料本部の本部長になる。 昭和57(1982)年伊藤萬石油販売会社の専任社長となる。 会社の変遷は、時代とともに大きく変化していく。 河村良彦の経営手腕に感心をして、経営理念や朝会などについていく。 しかし、河村良彦が、社長を延命させることで、変質していく。 河村良彦の甥 和田充弘による 石油業転不詳事件が起こる。 日東交易の倒産によって、100億円近い仕入れが、焦げ付く。 イトマンの河村良彦は、債務不存在を主張して提訴。 20社は、代金支払い請求訴訟を行う。 業転は、信用によって成り立っていたことを裁判することで、 イトマンの信用をなくすことになっていく。 河村良彦は、運命共同体、ガラス張り経営、成果配分主義、多数精鋭主義 で 昭和58年には、創業100年の偉業を達成して、中興の祖といわれた。 河村良彦による、子会社いじめの経営方法。 関連事業部の不始末を子会社に付け替える。 平和相互銀行に対する巨額な貸付。 その背後には住友銀行の磯田一郎がいた。 平和相互銀行を、住友銀行は吸収合併した 河村良彦は、その影の功労者だった。河村良彦は変質していく。 イトマンは、不動産事業に手を出し、地上げなどを行った。 住友銀行の負の部分を、イトマンが引き受ける形に。 住銀出身の加藤吉邦名古屋支店長によるアングラビジネス。 結果として、加藤吉邦は自死する。 土地・ゴルフ場開発・巨額の絵画取引。 絵画取引は、磯田一郎の娘が関与して、鑑定書の偽装。 許永中、伊藤寿永光らが暗躍する。 平成2年に 1兆2000億円の膨大な借入と資産の固定化。 経常利益は、137億円であるが、粉飾の可能性がある。 そして、平成2年に住友銀行 磯田一郎会長の退任によって、 イトマンの屋台骨が、大きく揺らぐ。 伊藤寿永光常務の退任。 平成3(1991)年1月25日に、河村良彦が解任される。 使途不明金が、3000億円。戦後最大の経済事件となる。 河村良彦、伊藤寿永光、許永中が、逮捕されることに。 そして、イトマンが、住金物産に吸収される。 まさしく、イトマン倒産の犯人は 住友銀行であるが、住友銀行は生き残る。 3人が逮捕されて、終焉することになるが、 暗闇の部分は ほとんど解明されないままで進んだ。 よく丁寧に イトマン事件のへそを暴いているが どうも 靴の上を掻いているようで、もどかしい物語。 しかし、きちんと 日本の経済史として残しておくべきでもある。
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