書き替えられた日本史 の商品レビュー
金印は江戸時代に博多湾の北の志賀島で発見された。それが本物でないともという。 卑弥呼が賜った銅鏡100枚は三角縁神獣鏡なのか画文帯神獣鏡なのか?三角縁神獣鏡のほうは国産っぽいという。
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前半、というか出だしは、わずか20-30年前に教科書に載っていた日本史の通説が「覆った」という事例が集められており参考になった。後半は、「○○はこう評価されているが実は…」というものが中心になっており、「別の見方もあるよ」という事例が集まっている。 「こうだ!」という言い切り型の説をうのみにすることなく自分自身の考えと知識を持って見ていかないと、と改めて感じた。 アイヌの項は、和人の同和政策の結果、アイヌは民族としても文化としても滅ぼされた、としているがそれこそ「まったく別の見方もある」(「北海道が危ない!」砂澤陣著)。
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歴史好きなら割と知ってそうな事だけど昔の教科書で完結してたら違和感大。 特に比叡山焼き討ちとか戦国系ドラマに影響が大。
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年をとってから学んだことは繰り返しやらないと定着しないのですが、若いときに習ったことは今になっても覚えているものですね。 娘達と話していて気づいたのですが、今では日本史の一部の名前や年号が、私が習った30年以上前とは異なるものがかなりあるようですね。それらを纏めて最近本にもなっ...
年をとってから学んだことは繰り返しやらないと定着しないのですが、若いときに習ったことは今になっても覚えているものですね。 娘達と話していて気づいたのですが、今では日本史の一部の名前や年号が、私が習った30年以上前とは異なるものがかなりあるようですね。それらを纏めて最近本にもなっていたので興味を持って読んだことを記憶しています。 この本もその種類の本ですが、今では定説となってしまっている事実も私にとっては新しいことなので、回数を重ねないと定着しませんので、同じ本を読み返すよりは、同じ趣旨の本を読んでみることにしました。 認識を新たにしないと、とは思いますが、私の脳に定着するのはいつのことでしょうか。似たような本を更に読まないといけないかもしれません。 年をとると単純記憶は衰える代わりに、理解して覚えることは得意となるようです。私もなぜ変更となったのか、以前はなぜそのように言われていたのかの差異を理解して、新しい知識に置き換えていきたいと思いました。 以下は気になったポイントです。 ・鎌倉幕府の成立で有力なのは、1185年。頼朝が全国に守護・地頭を全国へ派遣する権利、兵糧米の徴収権、国衙の支配権をえたことが根拠(p52) ・文永の役(1274)で元軍が退いたのは、現代暦では11.26にあたり西日本に台風が来るとは思えない時期。これは威力偵察であった(p56) ・弘安の役(1281)では、二ヶ月にわたって上陸を許さなかったので、その間に台風シーズンとなり、8.23(旧暦8.1)に暴風雨となった(p56) ・南北朝時代(1336-1382)に、九州に独立国があった。懐良親王が南朝の強固な拠点として北九州一帯を制圧した(p58) ・鉄砲伝来は、ポルトガル人ではなく、倭寇の頭目王直を介して行われた。当時の倭寇は日本人は1-2割程度(p62、65) ・そもそも武田軍には騎馬軍団はなかったとする説が有力、甲陽軍艦には、戦場では騎乗の武将も馬(体高が120センチほど)から降りて槍で戦った(p72) ・信長の暴挙とされる比叡山の焼き討ちは、発掘調査の結果、焼土層があまり見つからず、大規模ではなく山火事程度と推測される(p75) ・本能寺は、発掘の結果、周囲を堀で囲まれていて、内部も堀・石垣によって区画されていた。(p80) ・刀狩は交付されなかった大名領がある、上杉・徳川・宇喜多・毛利の4大老の領地ではされていない。前田領では、自ら実施した(p85) ・江戸幕府は鎖国していなかった、国際関係の窓口は4箇所(松前:蝦夷地、対馬:朝鮮・中国、長崎:オランダ、薩摩:琉球・中国)、徳川幕府は全部を統括していた(p86) ・氏とは、先祖を同じくする豪族のことで、政治的立場や職務におうじて、姓(かばね)という称号が与えられた(p100) ・仁徳天皇稜の名は、教科書から消えて、大山陵古墳、大仙古墳といった名前で紹介されている。(p104) ・もともと東北地方に住んでいたのは蝦夷であり、そこへ侵略行為を繰り返したのは、むしろ朝廷側。蝦夷から見れば、自分たちの権利を守る戦争であった(p111) ・将軍家の直轄領は400万石、直臣の領地が300万石であり、この合計は幕領となる(p131) ・日宋貿易は、日本からは、砂金・真珠・硫黄・杉や檜が輸出されて、宋銭・香料・薬品・書籍・陶磁器などが輸入された(p210) ・浄土真宗は、親鸞ののち、合計10派(真宗十派)に分かれた。(p215) ・楽市楽座は、信長よりも以前に、今川(富士大宮)、斉藤(稲葉山城)、六角(観音寺城)で行っていた。信長は、それを最も友好的に活用した(p227) 2014年5月6日作成
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