日本人の神 の商品レビュー
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"日本人は無宗教だ" と、よく言われるけど、果たしてそうなのか? と、兼ねてから疑問でした。じゃあ、数ある神社や寺の累々、初詣や七五三、「一粒の米に7人の神様」みたいな話は一体、何のことだ。。 そんなことを考えていた時にふと手に取った本。しっかりとした宗教の本なら読みにくいな。。と思ったらまさかの言語学からの考察で非常に面白かったです! 印象的だったのは、「砂漠で育った文明は能動的で戦闘的だという。「何もしないでいる」ということは即ち死を意味するからだ。宗教の始まりも、神が光を作り、闇を作り、草木を作り最後に人を、自ら作った。」とあり、 それに対して、神道は「最初から在る」という説明を聞いたことがあります。世界は最初からあって生命は自然発生したのだ、と。 著者の言う通り「日本人が自然に優しかったのではない。自然が人間に優しかった。」という土地柄が、日本人の感性や文明を育てたというのも納得です。 「日本人らしさ」を探して、古事記を読んだことがありますが、現代語訳でさえ難解で読んだ心地がしません笑 本居宣長は古事記について、そもそと"言葉にできない(言語化できない)ものだ"とその言葉に尽きるな。。と思わざるを得ない。 本著はそんなカミの実態を、少しだけ見せてくれた様な本でした。 カミの意義のひとつに「具体的な形を持たず、目に見えないもの」とありますが、古事記でも、最初にいた重要な神様たちは、"お隠れになって"以来、お話にさえ登場しません。 現代の小説ならあり得ない展開。笑 最初は主人公が登場するか、主役に纏わる重要人物のサイドストーリーから始まると相場が決まってるのに、古事記においては、最初にいた神様が"見えなくなった"ところから始まります。 見えなくなった話、いる?wって思ってました。さらに後から出てきて伏線回収、という件も一切ない。本当に「最初にいていなくなった」ことだけが書いてありそれ以外の情報がない。 それが、日本人の感性なんだ。と、初めて理解しました。大事なものはいつも目に見えない、形がない。でも"お隠れになった"だけで、なくなったわけではない。 この一番大切なことが最初に書いてあるのが、古事記なんだな。と、この本を読んで初めて腑に落ちた気がします。 「日本人らしさとは何か?」という議論が何となく流行ってるな、と感じる今日この頃。日本は一足遅れてナショナリズムに辿り着いた、というニュースも耳にしました。 「日本は昔から輸入国家だ」と著者が書く通り、間違いなく私たちは様々な要素を他国から取り入れて成長していく国です。そして度々、「日本人とは何か?」という根元の問題に立ち戻る民族でもあります。歴史の大きな流れで見れば、発散と収束を繰り返して、独自の文明と文化を築き上げてきました。足したり引いたり、混ぜたり取り除いたり、忙しない国ですが、曖昧で寛容な国でもありますね。 もうひとつ面白かった話は、「日本の気候では、太陽は物事を黄色っぽく見せるら。なので日本ではものは明晰に見えない。ヨーロッパや別の地域では、空気中の成分の違いによって、もっと物はハッキリ見える。」という記述です。 "曖昧"や''ボケ"のカルチャーは日本の地形の特異性が生んだ、とよく言われていますが、確かに実際に同じものを見ても見え方が違うかもしれません。 先日北京行った際万里の長城に登った時も、飛行機で上空から中国大陸を眺めた時も、日本と全く違う見え方だったのを思い出しました。 黄砂のせいか遠くは見通せず、昼なのに関わらず山々は水墨画の様に滲んで見えました。 そういう目線で、もう一回海外を旅してみたいな〜。
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神と仏の違い、神の意味するところの歴史的変遷がよくわかる名著。神の意味するところは6種類ぐらい有る。元々神というのは恐ろしく、支配されるものだったが、仏の伝来により人々の心を鎮めたり、慰めたりする存在にもなった。また、カミの語源がインド南部のタミル語から来ているという発見も面白い...
神と仏の違い、神の意味するところの歴史的変遷がよくわかる名著。神の意味するところは6種類ぐらい有る。元々神というのは恐ろしく、支配されるものだったが、仏の伝来により人々の心を鎮めたり、慰めたりする存在にもなった。また、カミの語源がインド南部のタミル語から来ているという発見も面白い。コロナが収束したらインド南部を旅してみたい。
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日本語タミル語起源説の大野先生の著作。神(カミ)という言葉は元々、恐ろしい威力をもったもの。神仏習合によって救助するカミと考えられるようになり、怨霊を鎮めるための仏教行事が生まれた。この御霊信仰は平安時代が起源と考えられているが、古代タミル語にもmu-iという同義の言葉が輸入されており、カミ信仰の原型は古代インドに発しているのではないか?というもの。 宗教儀式と稲作技術の用語が弥生時代に古代インドから多くもたらされたのは事実だと思う。しかし一番に気が付く問題として、日本人は南インドの人間に似ていない。遺伝学等、学際的研究が望まれる。
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読了 国のアイデンティティとして、これは知らないといかんこと、キリスト、アラー、孔子も釈迦も、ツァラトゥストラも、本を読めばわかるけど、神ほど定まらずに曖昧なもんはなかろうに 次は何を読むか
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キ、ヲ、ヂ、ヒコ=男の神 ミ、メ、ベ、ヒメ=女の神 仏教の伝来 蘇我氏は賛成、中臣氏、物部氏は反対。 仏神=ホトケという神。神宮寺=神社の中に寺を建てた=神仏習合。 神道。両部神道と山王神道。伊勢神道。卜部神道。 国学としての神道=江戸時代。本居宣長など。新政権の御維新=神...
キ、ヲ、ヂ、ヒコ=男の神 ミ、メ、ベ、ヒメ=女の神 仏教の伝来 蘇我氏は賛成、中臣氏、物部氏は反対。 仏神=ホトケという神。神宮寺=神社の中に寺を建てた=神仏習合。 神道。両部神道と山王神道。伊勢神道。卜部神道。 国学としての神道=江戸時代。本居宣長など。新政権の御維新=神武の親政に復帰すること=神仏分離令、廃仏毀釈。 神社なのに本尊は仏像=ホトケが神の領域に入り込んでいた。 日本語と同じ文法構造=アルタイ語=ツングース語、モンゴル語、トルコ語を含む言語群。しかし文法は同じだが単語は共通ではない。 インド最南端のタミル語が対応語を持つ。朝鮮語とも。 カミの言葉はタミル語から。
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言語からのアプローチで「神」についてを語っている。 日本の上代以前の「神」とはどのようなものであったか、「神」ということばはどのように変化してきたか等。 そして「神」という日本語とタミル語の共通についても書かれている。 大野晋先生の著書なので、もっと言語について突き詰めたことが書...
言語からのアプローチで「神」についてを語っている。 日本の上代以前の「神」とはどのようなものであったか、「神」ということばはどのように変化してきたか等。 そして「神」という日本語とタミル語の共通についても書かれている。 大野晋先生の著書なので、もっと言語について突き詰めたことが書かれていると更に良かったと感じるのだが。 しかし「神」というものが日本人にとってどのようなもので、如何なる歴史を辿って現代に至ったかが理解できた。
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氏が提唱した古代日本語とインド南部タミル語の共通性を示し、 日本とタミル地域に共通した「カミ」の特性を踏まえ、一神教の「God」と比較。 その検討から日本人の特性を見る。 前半部は「カミ」を巡る奈良時代以降の神道研究の歴史を紹介。 国学の祖・契沖や本居宣長の研究手法か...
氏が提唱した古代日本語とインド南部タミル語の共通性を示し、 日本とタミル地域に共通した「カミ」の特性を踏まえ、一神教の「God」と比較。 その検討から日本人の特性を見る。 前半部は「カミ」を巡る奈良時代以降の神道研究の歴史を紹介。 国学の祖・契沖や本居宣長の研究手法から、それらをさらに発展させた橋本進吉氏(大野晋氏の師匠)の研究を紹介。そして日本語の語源研究の重要性を指摘する。 非常にスケールの大きい一冊である。
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神道関係の本かと思い、図書館でお取り寄せして借りる 中身は国語学であった やまとことばに興味があるので、そのまま読む 日本語とタミル語との共通項など面白く読めた 神仏習合から神仏分離など敢えて調べなかったことだが 偶然、知ることが出来てよかった
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・大野晋「日本人の神」(河出文庫)は いかにも国語学者大野晋らしい書であつた。内容は「日本語のカミ(神)という言葉の由来をたずねてみようと」(10頁)いふものである。語源に始まり廃仏毀釈まで、いやもつと幅広い話題にあふれてゐる。その根本には国語学者の思考と方法がある。もともとは「...
・大野晋「日本人の神」(河出文庫)は いかにも国語学者大野晋らしい書であつた。内容は「日本語のカミ(神)という言葉の由来をたずねてみようと」(10頁)いふものである。語源に始まり廃仏毀釈まで、いやもつと幅広い話題にあふれてゐる。その根本には国語学者の思考と方法がある。もともとは「一語の辞典」といふシリーズの1冊として刊行され たといふ。この「神」へのこだはりもむべなるかなである。 ・巻頭の語源で問題になるのがカミのミである。これが大野の上代特殊仮名遣ひに関連するといふのはよく知られたところで、神のミは乙類であつて、甲類の、 例へば鏡のミだとか、上のミだとかとは別の音であるといふことである。つまり、従来の「神」の語源説はまちがひなのであつた。そこから日本の「神」の概念を考へ、仏教の「仏」との対比をし、更にその両者の関はりを考へていく。この中で本地垂迹や神仏習合に触れ、関連して国学の発展に言及する。神をめぐる日本の思想史とでも言ふべき内容である。かういふので終はれば、失礼ながら何だこれだけかといふことになつてしまひさうである。ところがそこは大野晋である。そんな形では終わらない。まだ先がある。「カミの輸入」である。その前に「ホトケのぶちこわしとGodの輸入」なる章があり、西洋的な一神教に於ける神との違ひに触れてゐる。そのうへで、日本のカミはどこから来たかを最終的に考へるのである。結論から言へば、大野晋の専売といつても過言ではないタミル語である。日本のカミはタミル語から来た……大野晋であるから、ある意味で予定調和的な世界である。さうであるからこそ、ここできちんと日本語とタミル語の関係を説明してゐる。タミル語とは、「インドの最南端に、現在五〇〇〇万人の使用人口を持ち、B.C.二〇〇年~A.D.二〇〇年の間の、詩二四〇〇首 を持つ」(132~133頁)言語である。「日本語との間に五〇〇の対応語をもつが、それだけでなく朝鮮語との間にも何百という多数の対応語をもつ」 (133頁)言語である。しかも、考古学的にも日本とタミルの関係が明らかになつてゐる(134頁)。このあたりは他の大野の著作に詳しい。本書に関連して言へば、カミ関連の語の対応ももちろん多くあり、しかも、その意味内容から日本のカミと「音形と意味において全面的に対応する」(177頁)語もまたあるのである。ただし、この事実から日本のカミ概念が先かタミル語が先かの判断はできない。いづれにせよ、ここで大野の考への正当性が確認されることにな る。これを我田引水と言つては失礼であらう。ただ、私はタミル語を全く知らないので、大野が日本語との対応等を示しても、その妥当性を判断することができず、さうなのかと感心するばかりである。このカミに関しても同様、大野によれば、日本のカミは確かにタミルに続いてゐると思ふ。現在、この大野の起源説がどのやうに評価されてゐるのか、これを私は知らない。ただ、学会で広く受け入れられてゐるのかどうか。国語学会は困惑の体であらうか。言語学的にはいろいろと問題が多いらしい。だからといふわけではないが、私も眉唾の感を捨てられないのである。おもしろいことはおもしろい。例の如く、なかなか見事な素材の料理の仕方、書きつぷりである。首尾一貫してゐる。だから、こんなにうまくいくものかと思ひつつも、感心して読んでしまふ。それでも、私にはタミル語について今一つ釈然としないものが残る。この起源説によるカミ解釈が大野の言ひたかつたことだといふのは分かる。分かるからこそ、ここでもそれをもつとつきつめてほしかつたと思ふばかりである。
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