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“アジア"、例外としての新自由主義 の商品レビュー

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2015/09/10

著者は、新自由主義を、世界を覆う単一の統治様式としてではなく、むしろ各地域における既存の統治論理と経済成長との最適化をもたらすような、非政治的装いをもつ統治技術であるとして、アジア地域におけるその適用を、シュミットならびにアガンベンの概念を援用し、「例外化」として議論する。すなわ...

著者は、新自由主義を、世界を覆う単一の統治様式としてではなく、むしろ各地域における既存の統治論理と経済成長との最適化をもたらすような、非政治的装いをもつ統治技術であるとして、アジア地域におけるその適用を、シュミットならびにアガンベンの概念を援用し、「例外化」として議論する。すなわち、市場の予測計算にもとづく新自由主義的統治は、しばしば権威主義的であることが多いアジアにおける既存の統治論理の「例外状況」としてもたらされるが、また一方では、新自由主義的予測計算から「例外」として除外される人々や領域をも生み出しているというのである。 グローバル経済における成長と、領土や人口に対する既存の統治論理との最適化をもたらすように、主権や市民権を分離し再接合するような統治テクノロジーという新自由主義の捉え方そのものについては、ネグリやハートらの議論よりもうなずける部分が大きい。しかし、ひとつの問題は「例外」概念の使い方だろう。新自由主義による包括と排除を使い分ける統治実践をすべて「例外」として説明しようとすれば、それは市民権と主権の適用状況に関するありふれた事象を記述する概念にすぎなくなり、主権と市民権の基盤そのものを問うたシュミットとアガンベンの強力な理論からは遠ざかってしまうように見える。 さらに強い違和感を覚えるのはそのアプローチである。著書は、ネグリらの巨視的統一的アプローチを批判して、文化人類学者として各地域の文脈における実践を検証する「低空飛行」のアプローチをとると冒頭で言明する。ところが実際には、本書の議論は驚くほどに巨視的かつ抽象的なのだ。 本書では、中国本土からマレーシアやインドネシアなどの東南アジア各国、さらにアメリカの中国系コミュニティまで幅広い地域が、また、多国間輸出加工区から大学や投資家の経営戦略、NGOの実践、家事労働者の権利運動まで、幅広い問題が扱われているが、どの論考も、その場に生きる個々人の思考や行動といったレベルに視点を下げることなく、終始マクロレベルで統治や主権を論じている。 たとえば女性移住家事労働者の新奴隷制的状況とNGOの介入について論じる第9章において、著者は、「フェミニストNGO」が移民となる女性たちを受入国中産階級のモラルエコノミーと女性らしさの価値にあわせて規律訓練する役割を担っていると指摘したうえで、理論的にはNGOを、国家や企業とならんで「社会技術の一形式」とみなしている。私自身はそのような活動を行っている「フェミニストNGO」を知らないのだが、注釈を見てみると、オングの議論が実際の家事労働者やNGOへのインタビュー調査にもとづいておらず、他の論文の引用に依存していることがわかる。第1章におけるマレーシアのフェミニストNGOへの批判も同様。このような議論のやり方は、文化人類学ではないとしても「乱暴」と言わざるを得ないと思うが。 直接的具体的な観察が欠如している一方で、これらバラバラに書かれた多彩なテーマの諸論文には、一貫した理論的議論が欠けているうえ、「バロックな生態系」「水平的な市民権」といった概念が、厳密な定義抜きで使われている。特に複数の論文で何度も出てくる「アジア人」とは問題の多い概念だが、どこにも厳密な定義が示されておらず、いかなる主体のことを指しているのか不明だ。 端的に言って、あまりにも膨大で多様なことを、あまりにも不明瞭で抽象的すぎる概念を使って説明しようとしている印象。オングといえば、かつて新国際分業において「nimble finger」をもつ女性労働者の構築という意味を論じた重要な貢献をした学者だったのに、本書では、女性NGOや女性労働者を論じる場面でさえ、あまりにもシンパシーに欠ける乱暴な議論を展開していて、非常にがっかりさせられた。

Posted byブクログ

2015/01/31

アメリカのビジネススクールがグローバルな展開として、アジアを軸とした新しい経営者の訓練のプログラムを構築したり、開校している。国際化するアメリカのビジネススクールは明らかにアメリカ市場の価値観を広めるように計画されている。 アメリカの大学の教育はグローバルな空間においても主導的な...

アメリカのビジネススクールがグローバルな展開として、アジアを軸とした新しい経営者の訓練のプログラムを構築したり、開校している。国際化するアメリカのビジネススクールは明らかにアメリカ市場の価値観を広めるように計画されている。 アメリカの大学の教育はグローバルな空間においても主導的な期間であり続けたいと願っている。 中国の主権の正当性は基本的には国境貿易の回路を解放することによって保障されているのであり、市民権へのアクセスを解放することによって正当化されているのではない。

Posted byブクログ