言語が違えば、世界も違って見えるわけ の商品レビュー
「ホメロスの叙事詩は、色に関する記述に現在と奇妙に異なるところがある。古代ギリシャ人には、世界が我々とは全く違う色に見えていたのではないだろうか?」-ある英国政治家が抱いた奇想から、本書の楽しくも長い旅が始まる。紹介されるエピソードや実験はどれも興味深い上、語り口はユーモアに溢れ...
「ホメロスの叙事詩は、色に関する記述に現在と奇妙に異なるところがある。古代ギリシャ人には、世界が我々とは全く違う色に見えていたのではないだろうか?」-ある英国政治家が抱いた奇想から、本書の楽しくも長い旅が始まる。紹介されるエピソードや実験はどれも興味深い上、語り口はユーモアに溢れ全く読む者を飽きさせない。また最近の海外の科学啓蒙書にありがちな、同じようなエピソードをだらだらと並べ、同種の主張を何度も繰り返すといった悪質なページ数の底上げもない。専門的知識は全く必要なく気軽に読める。 テーマは、大きく前半の「色彩語彙を決定するのは自然か文化か」と、後半の「言語は知覚や思考に影響するか」に分かれる。後半、最も興味を掻き立てられたのは「前後左右」を用いずに「東西南北」でのみ位置的情報を処理するオーストラリア先住民のエピソードだが(カーナビのノースアップで日常生活を送るなんて!)、そこで前半の議論の帰結である「自然は言語に制約を与えるが、その中で文化が裁量を持つ」という命題が再び立ち現れてるくる瞬間には興奮を覚えた。また、終章のテーマもまた「色」であり、読者を議論の連環に巧妙に誘う構造になっていることにも感心させられる。 エピローグも殺し文句が満載で、読後感良し。
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この本では、古代人、異なる生活習慣や言語を用いる人たちでは、感覚器の機能上の問題ではなく、色を示す言葉に大きな違いがあることを述べている。 また、ジェンダーをもつ言語のその判断基準の喪失、はたまた、未開であろうが文明国家であろうが、言語は総じて複雑であることも述べている。 偏見や...
この本では、古代人、異なる生活習慣や言語を用いる人たちでは、感覚器の機能上の問題ではなく、色を示す言葉に大きな違いがあることを述べている。 また、ジェンダーをもつ言語のその判断基準の喪失、はたまた、未開であろうが文明国家であろうが、言語は総じて複雑であることも述べている。 偏見や差別のキッカケになることもあるこれらの違いは、言語が文化を変え、また、文化が言語を変えているということだけであり、その優劣の問題ではないということだ。 発達障害の人の一部には、弱いものでも感じやすく、違いについてこだわるタイプがいることが知られている。 彼らにとっては、健常と呼ばれる人々の区別のいい加減さ、曖昧さが理解しにくい。また、その逆の感覚や識別の厳格さを理解しにくい。 私は幼稚園の頃には色か分からなかった。厳密に言うとものの明るさと形には注意をはらっていたが、色については明るさの違いであり気にしていなかった。 他の子達は、棒人間やグルグルした赤い太陽を描くのだが私にはそれは出来なかった。どちらかというと、一部に色の付いたモノクロ写真のように見えていたし、それをクレヨンで描こうとしていた。 今は棒人間も描けるし、赤いグルグル太陽も描ける。絶対に変わらないものでも無いのだ。 ダイバーシティ、多様性などについてさけばれているが、身近なところでも差や変化はあるのだ。何らかのサービスの提供においてシステムを作る場合はこれらの考慮が欠かせない筈だが、現状はそうはなってはいない。 そういう意味では大きな気付きがあった。
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高校生の頃にふと思った「私の赤は、他の誰かにとっても同じ赤なのか」問題、全く同じ疑問を持って、著者が10代の頃に友人と徹夜で話したというエピソードが出てきて笑った。脳内の画像をそのままのイメージとしてやり取りできる装置が開発されない限り、自分の赤が本当に万人にとっての赤なのかは、...
高校生の頃にふと思った「私の赤は、他の誰かにとっても同じ赤なのか」問題、全く同じ疑問を持って、著者が10代の頃に友人と徹夜で話したというエピソードが出てきて笑った。脳内の画像をそのままのイメージとしてやり取りできる装置が開発されない限り、自分の赤が本当に万人にとっての赤なのかは、誰にも判らない。 同じ「赤」でも完全な同一性の証明はできないのだから、言語が違えばそこにどれだけの差が出てくるか、想像に難くない。古代には「青」が無かったとか、言語体系として「青」「緑」の差を持たないとその2色(という概念が無いんだもんね)の分類に遅延が出るとか、生活圏の違いによる地理の把握の仕方の差異とか、生活から言語が生まれて、その言語がまた生活を決めて行くというのは面白い。そういえば日本にも都/地方へ向かうことを「上る」「下る」っていう本来とは違う意味で使う言葉があったな。 個人でも文化でも「差異」をあたり前だと思えたら、いろいろとスムーズに行くような気がする。
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ホメロスの詩における色彩表現の研究から、文化人類学、そして脳科学まで、人間の言語と認知がどのように関わり合い、それらによって社会がどのように作られてきたのか(あるいは逆に、どういった社会が、人間にいかなる言語と認知を要求するのか)について、言語学の歴史と論争を追いながら、事例をま...
ホメロスの詩における色彩表現の研究から、文化人類学、そして脳科学まで、人間の言語と認知がどのように関わり合い、それらによって社会がどのように作られてきたのか(あるいは逆に、どういった社会が、人間にいかなる言語と認知を要求するのか)について、言語学の歴史と論争を追いながら、事例をまとめた本。 たとえば、古代ギリシア作品・旧約聖書・古代インド経典など、地域に関わらず、それらの時代の作品群には「青」という色彩表現は存在しないという。こういった研究から、人類にとって「青」は「黒・白・赤」よりも言語化に時間が必要だった推測されている(「緑」や「黄色」は「青」よりもさらに言語化されにくいらしい)。 また、「前後左右」という言語表現を持たない民族は、その一方で「東西南北」について、常に認知しながら生活しているという。(ただし、植民地化により、その民族言語は失われつつあり、同時に特有の方向感覚もその民族から失われつつある) 本書では、「言語を持たないからといって知覚できていないわけではない」という解説もされつつ、「言語は知覚に影響を与えている」という強い可能性も示唆されている(例えば色彩を知覚するときは、言語を司る左脳が活発になるそうだ) 特に後半は複雑な構成だけれども、無理に結論付けず、不思議そのものを楽しみながら読むのが良いと思う。
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文化論かと思って読み始めたら、言語研究史だったー。 「違って見える」というのは、つまり「研究者がとんでもない解釈に陥ってしまう(しまった)」というフレーズに置き換えられる。大学生時代に読めるとかなり役にたったかも。 大学生活を、目の前にある課題と楽しみに追われて過ごしてしまった...
文化論かと思って読み始めたら、言語研究史だったー。 「違って見える」というのは、つまり「研究者がとんでもない解釈に陥ってしまう(しまった)」というフレーズに置き換えられる。大学生時代に読めるとかなり役にたったかも。 大学生活を、目の前にある課題と楽しみに追われて過ごしてしまった自分としては、こんなふうに先行研究を概観するのってしみじみ大切だったんだなあって感じる。「〇〇学史」って勉強する意義が、いまさらわかってきました。恥ずかしながら。 (先生に恵まれなかったのかな、それとも自分が話きいてなかっただけかな^^?)
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まず、プロローグが秀逸。 なかなかの分量だが、著者がこの本で試したいことを充分不可欠に語りながら、なおかつ読み物としても成立している。 全体的に、言葉というものに少しでも興味を持っている人ならば面白く読み進められる内容。 特に私は大学の専攻が認知心理学だったので(といってもほと...
まず、プロローグが秀逸。 なかなかの分量だが、著者がこの本で試したいことを充分不可欠に語りながら、なおかつ読み物としても成立している。 全体的に、言葉というものに少しでも興味を持っている人ならば面白く読み進められる内容。 特に私は大学の専攻が認知心理学だったので(といってもほとんど勉強などしていないが…)、Part 2ブロックはまた違った側面からの関心も持って読むことができた。 言語はどんなものであっても生来の枠組みに拠って起こるだけのものではなくて、それが時には鏡となり、時にはレンズとなって、特に文化的慣習を中心とした人間の思考にも影響を与えるものなのだ、というのがざっくりとした主張だとは思うが、実はガイ・ドイッチャー氏がその"影響"の存在を認めているヴォリュームはそれほど多くない、というのが率直な感想。 言語の違いが思考や習慣を変える要素はあるが、それはあくまでもごく限られた分野においてのみで(少なくとも科学的に解明されているのは)、本質的には人間はどの言語を使い、どの国に住もうが同種の生物であるから、その根元的な精神性に大きな差異はない、言語の影響を過大評価してはいけない、というのが本当に著者が伝えたいことなのではないだろうか? 一つ、不満というか消化不良な部分を挙げるとすれば、言語と思考の関係性について、もう少し文法面から探った深い考察を知りたかった。 とりわけ日本語を母語とし、普段からこの種の疑問を抱えている私にとって、ヨーロッパの大多数の言語と異なる語順が、日常の思考パターンにおいてどのような影響を及ぼしているのか、という見解を読んでみたかったのだが、それについては著者も本書中で、文法については深く触れない、と言明している以上仕方ないか。 また、特に第6章なんかにおいて顕著だが、既に過去の理論として広く否定されているものに対してさらに否定を重ねる、その語調が必要以上に手厳しいような気がしたのだが…。 何か私怨でもあるんじゃないか? と思うぐらい。
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言語学の歴史をたどって極論から極論へ展開し、最後には中庸の持論に落ち着くが、まだまだ未踏領域は果てしない。 きちんと筋を追わないと、途中の極論にはまってしまう恐れあり。古代ギリシア人は色弱だったとか、ホピ族の時間観念とか言われると、魅力的なだけに信じたくなるので注意。
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なぜこの時代、この言語に表現がなかったか?言語学の面白さを凝縮した本だと思う。コミュニケーション手段としての言語がどのような歴史を経て今の体系となったか?この謎を読み解くのは、とても難しいが同時にある種のワクワク感を抱かせてくれる。
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言語と文化、思考について。 どの言語が優れているとか、劣っているとか、たぶん今はそんな議論はされていなくて、「みんな違ってみんな良い」ってことになっているんじゃないかと思う。
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・ユダヤのタルムードに「使うに値する言語がこの世界には四つある。詩歌のためのギリシャ語、戦いのためのラテン語、悲嘆のためのシリア語、日常会話のためのヘブライ語である」。 ・「言語に未来形があるからこそ、われわれに未来の希望を与える」。 →違うだろう。 ・ある言語学者は最近、ヘンリ...
・ユダヤのタルムードに「使うに値する言語がこの世界には四つある。詩歌のためのギリシャ語、戦いのためのラテン語、悲嘆のためのシリア語、日常会話のためのヘブライ語である」。 ・「言語に未来形があるからこそ、われわれに未来の希望を与える」。 →違うだろう。 ・ある言語学者は最近、ヘンリー8世が教皇庁から離脱したのは言語の問題があったと主張した。いわく、英語の文法はフランス語とドイツ語の中間的性格を持つゆえに、英国の宗教思想はあらがいようもなくフランスのカトリック信仰とドイツのプロテスタント信仰の中間点に向かっていったのだと。 ・チョムスキーの主張:火星人の科学者が地球を観察したら、地上のすべての人間は単一言語の諸方言を話していると結論付けるに違いない。 ・グラッドストンは、
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