ドラッカー2020年の日本人への「預言」 の商品レビュー
ナチスは全体主義だが軍国主義ではない→明確にしないと、なぜ、ドラッカーがナチスを深く敵視したのか理解できない。 地下鉄サリン事件→日本の社会秩序崩壊の予兆を指摘 政治の混迷と有権者の根拠なき期待 ☆テレビで総理は報道→市長の名前すら知らない。交付金は市から支給されるのに。R0...
ナチスは全体主義だが軍国主義ではない→明確にしないと、なぜ、ドラッカーがナチスを深く敵視したのか理解できない。 地下鉄サリン事件→日本の社会秩序崩壊の予兆を指摘 政治の混迷と有権者の根拠なき期待 ☆テレビで総理は報道→市長の名前すら知らない。交付金は市から支給されるのに。R021219全国ニュースになる施策などなし・経済外交好きな一般人・市では地域ニュース/不祥事のみ 転換期には既存のシステムが機能不全に陥る。 流動する知識ワーカーと市民性 地下鉄サリン事件に見る知識ワーカーの課題→欲求が満たされない→歪んだエネルギーとなり社会を破壊 ボランティア なぜ職場で働くときよりも生き生きしているのか? 青年ドラッカーを記した「傍観者の時代」 ヘンシュナチス親衛隊幹部「金、コネもない。ナチ党員であれば地位を与えてくれる。」→ナチスを批判的に分析した「経済人の終わり」 シェイファー ユダヤ人政治記者→2年後、ナチスにとって利用価値がなくなると新聞社とともに跡形もなく消え去ってしまった。 フランクフルト大学 教員たちは昨日まで同僚だったユダヤ人教員から距離をおいて、わが身に災難が降りかからないようにして退出→死ぬほど胸がむかつき48時間以内にドイツを出ようと決心 無関心の罪 1942年「産業人の未来」ドイツの敗戦を前提 企業組織が社会の中心になる。 第一次世界大戦中 人口の魔物 地震、台風などの自然→恐慌による失業 魔物の退治に占拠 企業はコミュニティの役割を担うことができない→産業社会から知識社会へ変化 アメリカでの討論会 「そのような政治を許している。あなたは市民としてどう感じているのか」
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『ドラッカー2020年の日本人への「預言」』は、非常に意味深なタイトルだと思う。 著者は、ドラッカーの原点であるナチス批判にも言及しつつ、彼がマネジメントを通じて目指したものが、自由な社会であることについて語っている。晩年の愛弟子であった著者が、ドラッカーから『預』かった『言』...
『ドラッカー2020年の日本人への「預言」』は、非常に意味深なタイトルだと思う。 著者は、ドラッカーの原点であるナチス批判にも言及しつつ、彼がマネジメントを通じて目指したものが、自由な社会であることについて語っている。晩年の愛弟子であった著者が、ドラッカーから『預』かった『言』葉として語ってみせるのは、まさしく現在の日本が、ナチスの登場してきた頃のドイツの姿に似ているのではないかといった危惧である。 ドラッカーが、企業のマネジメントを通じて求め続けたものは、人々が役割と位置を得ることができる社会の実現だった。ナチスを受け入れたドイツでは、ユダヤ人のみならず全体主義のもとで、当然ながら人々の自由などなくなっていった。 今の日本でも、企業は資本の論理にあらがえず、多くの若者が社会の中で、役割と居場所を得ることができずにいる。政治の世界でも、出口が見えない状況の中で、人々は自ら政治に関与し、期待することをしなくなっている。このままでは、いわゆる、いつか来た道というやつだ。 2020年というのは、現在の社会の転換が終息し、知識の時代という、これまでの価値とは全く違った時代へと移行するだろうとドラッカーが述べた年代を指している。すでに、もう10年を切っているのだが、今の社会システムの破綻の予感はすれど、新たな時代の曙光さえ見えてはいない。 下手をすれば、とんでもない事態が待っているのだろうが、軟着陸ができるかどうかは、企業や本書で強調されている非営利組織の力、そして、個々人の社会とのかかわり方にかかっているのだと思う。 次なる時代に、なるべく穏やかに移行するためには、一個人として社会に対するスタンスをしっかりと持つことと、組織においては、マネジメントの目的を再認識し、持続可能な社会に貢献できる組織運営を実現することだと思う。 そのためにも、今後ますますドラッカーから学び、ドラッカーを通じて考えるべきことはたくさんあると思う。
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グローバル化の波が市民社会にも忍び寄り、時代の転換期が来ていることを感じさせられる。この先の日本はどうなっていくのか。それを学びたくてこの本を手にした。ドラッカー、「もしドラ」で一世を風靡したが、この本を読んで、今の社会が、ナチス時代の社会と共通するところがあり、いかに個人の知識や行動が問われているかがわかった。また、本著の中で、非営利団体の重要性も説いている。 ドラッカーにとって、知識とは行動に結びついた時に意味をなすのであって、そうでないならば単なる情報である。知識によってそれが取り組むべき課題によって、重要性も位置づけも変わる。ドラッカーが本格的に非営利団体に関わるようになったのは1980年代からである。そして、知識社会が始まった時期から70〜80年代にあたるのが、2010年ないし2020年になる。知識社会の特徴としては、①流動的、②競争的、③高度に専門文化的、④知識ワーカーはチームとして働かねばならず、また組織と関わりながら働くことを求められる、ということである。 知識社会は、多くの成功者とともに、多くの敗北者を出すので、人々の心身の福祉と社会の安定を支えるための役割や社会的機能を果たすものが必要である。しかし、議員制度と予算制度、職業公務員、中央銀行、義務教育、ドイツ型の大学、および報道機関が整うことによって、安定した政府、秩序ある政治、経済成長を自動的に確保できるという考え方は今後の社会においては機能しないという。なぜなら、福祉の例を挙げると、社会保障費の増大で、国家予算を圧迫し、政府のダウンサイジングが求められ、国民へのサービスを増やしたにも関わらず、政府に対する国民の信頼は低下している。多大な負債を抱えた大きな政府では、国民を賄いきれないというのが今の現状である。 「転換期の社会において重要なのは市民社会である」とドラッカーは言う。その市民社会とは、人々が社会的な利益のために活動し、協力し合う領域で、政府と市場そして家庭などの私的領域とは別の領域である。また、人々が協力し、活動するには組織が必要になるが、それが社会的使命に基づく非営利組織なのである。知識社会が進んでいくと、人々の働き方が変化し、より流動的になる。こうした流動的な知識ワーカーは、自らの拠り所をもはや企業組織でなく非営利団体に求めるようになる。「人間変革機関」と「市民性創造」の役割を担うのが非営利団体なのである。 ドラッカーが目指した社会とは、一人ひとりの人間が位置づけと役割を持ち、社会的な権力が正当性をもって機能する自由な社会である。しかし、日本はイギリスやフランスなどの「獲得した民主主義」とは異なり、上からの「与えられた民主主義」である。選挙の投票率を見ても、政治に関する意識が低い。民主主義の主権は国民である。もし、日本がこの先、誤った方向に行くならば、その最終的責任は国民にある。「無関心の罪」、これが一番怖い。 今、日本に必要なのは、参加する側の個人の論理である。誰かに依存するのではなく、自分の意志で熟考し、選択し、その結果について責任を持つことが求められる。そうした意味で、政府に頼れないとなると、非営利団体の役割がより重要視されるのである。
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