NHKさかのぼり日本史 外交篇(2) の商品レビュー
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服部龍二『なぜ、日米開戦は避けられなかったのか』 外交史研究者らしく、1930年代の日本が戦争に突入してしまった原因を外務省に焦点を当てて解明する。 4章構成であり、わかりやすくまとまっていて好著。(てかこのシリーズはだいたい良い) 第1章は日米諒解案の破綻について。近衛と松岡に焦点をあてて書いている。 筆者は、はじめにで「ときとして近衛文麿、松岡洋右、広田弘毅らに辛口とならざるをえないことは気の重い作業でした」といっているが、なるほどたしかに辛口である。 ただ、松岡に対する書きぶりはどこか同情的な側面がある気がしないでもない。 近衛と松岡が対照的な人物という指摘(17p)はちょっとはっとした。著者は「名門と異端」と表現している。 近衛が名門であることは論を俟たないだろうが、松岡については「家庭事情から13歳で渡米」しオレゴン大学の夜間を優秀な成績で卒業し外務省入りをしたことはしらなかった。 しかもそのあとは外務省を一度去り、満鉄総裁、政友会の衆議院議員にもなるなど、外務官僚の正規ルートからしたらたしかに「異端」である。 1章ではこの二人のすれ違いで日米外交が行き詰った側面を描写している。 ・松岡は日独伊三国同盟にさらにソ連を加え4国協商とすることで米国に圧力をかけ、これをもって優位に日米交渉を進めようと考えた。 ・松岡はヒトラー、スターリンとも会談した。日ソ中立条約も締結した松岡は「人生の頂点」にたった ・野村吉三郎が持ち帰った日米諒解案には誤解があったが、近衛はそれを信じて喜んだ。米国と妥協できると。 ・6月の独ソ開戦はアメリカにとって好都合であり、日本にとっては南部仏印進駐のチャンスだった。 ・ただし、南部仏印進駐がアメリカの態度を硬化させることは読み切れなかった。日本の情勢判断は楽観的に過ぎた。 ・日米開戦を聞いた松岡は涙を流し「不覚」といった。 松岡を迎えに行った近衛に対し、そっけない松岡というのはなんともありそうで印象的なエピソードだ。こんな時局に仲たがいスンナ。 2章では近衛内閣の広田弘毅外務大臣が世論や陸軍に迎合し、戦争の拡大を止められなかったことを描出する。 ・国民精神総動員大会も日比谷公園で開催された。ラジオの音に乗って首相の声は広く大衆まで届く。 ・石射猪太郎は広田に戦争不拡大を進言したが「閣議も知らんくせに」というかたちで受け入れられなかった。 ・近衛は風見の進言を入れ、メディアに戦争協力を取り付けた「実力のない近衛が国民を煽り、熱狂的支持を得たことは、戦争が泥沼になりかねないことを意味した。」たしかに辛口である。若槻もとばっちりを受けている。 ・広田のトラウトマン工作。しかし、南京を攻略すれば・・・という陸軍の意向を受け入れてしまう。幣原の忠告もスルー。 ・日本は南京陥落で和平条件を釣り上げてしまう。「満州国を認めろ」蒋介石は回答せず。日本は回答期限までに返答がないことを理由に、交渉打ち切り、相手とせず声明など出してしまう。 ・「民意を無視して外交は成り立たないが、民意におもねる外交は確実に行き詰っていく」 3章では国際連盟脱退を、「田中上奏文」についての中国の宣伝外交とからめて論を進める。松岡とこいきんが中心人物 ・リットン調査団への働きかけは日中双方ともに熱心だった。 ・リットン報告書は中国東北への地方自治政府の創設を提起していた。日本の権益にも配慮した形。 ・国際連盟での松岡と顧の田中上奏文をめぐる論争で結果的に田中上奏文が国際社会に注目されることとなった。 ・松岡は脱退を「失敗した」と感じていたが、国民は歓迎した。これがのちの松岡のスタンドプレーにつながったのではないかと推察 4章は田中内閣期の外交。僕は卒論で扱った部分。 ・北伐時の南京事件(北伐の途中で中国側が欧米の領事館や外国人を襲撃)で幣原は不干渉。蒋介石に期待。しかし、国民は軟弱と批判。 ・ ・対米英協調外交とひとくくりにされがちだが、米と英では温度差がかなり違う。 ・田中は蒋介石に不審がられてしまった。
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国内事情を重きに置いて外交を進めたため、選択肢が狭められ、身動きができなくなった。今もそのようなことが起きるのではないかと危惧する。
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【所在・貸出状況を見る】 http://sistlb.sist.ac.jp/mylimedio/search/search.do?target=local&mode=comp&category-book=all&category-mgz=all&materialid=11201703
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(2014.06.23読了)(2014.06.13借入) 「“外交敗戦"の教訓―なぜ、日米開戦は避けられなかったのか」 日清戦争から太平洋戦争までの外交は、大陸への権益をいかに確保するかということにあったのでしょうか? 武力を背景に推し進めるということでもあったのでしょ...
(2014.06.23読了)(2014.06.13借入) 「“外交敗戦"の教訓―なぜ、日米開戦は避けられなかったのか」 日清戦争から太平洋戦争までの外交は、大陸への権益をいかに確保するかということにあったのでしょうか? 武力を背景に推し進めるということでもあったのでしょうが、その軍隊が政治のコントロールがきかないものになっていったために、最後は殆ど軍事政権というところまで行ってしまったようです。 軍隊が勝手に動いてしまうのでは、政治による外交など無きに等しかったのではないでしょうか? そういう意味では、政府がどうやろうとしたかを探った書き方は、あまり意味がないような印象がありますが、いかがなものでしょうか? 【目次】 はじめに 第1章 挫折した日米交渉 第2章 日中戦争 熱狂の代償 第3章 国際連盟脱退 宣伝外交の敗北 第4章 崩れゆく国際協調 結びに代えて 参考文献 年表 第1章 [挫折した日米交渉]1941年 松岡洋右 日米諒解案の破綻によって交渉機会を逸した日本は真珠湾攻撃に向かう。なぜ、アメリカとの戦争回避に失敗したのか。 第2章 [日中戦争 熱狂の代償]1938年 近衛文麿 国民政府を対手とせず 声明により中国との和平の道を断った日本。なぜ、慎重となるべき政府が強硬論を貫いたのか。 第3章 [国際連盟脱退 宣伝外交の敗北]1933年 田中上奏文 国際連盟脱退という極端な選択、その背景には中国の巧みな宣伝外交があった。なぜ、日本は国際世論を敵に回してしまったか。 第4章 [崩れゆく国際協調]1928年 中国の再統一への対応に際し、満蒙権益にこだわる日本は米英と袂を分かつ。軍が危機感を深めた末に、満州事変が勃発する。 ●「田中メモリアル」(93頁) 「田中メモリアル」とは、1927年に田中義一首相が世界征服を計画し、昭和天皇に上奏したとされる怪文書である。日本では「田中上奏文」として知られていた。 日本の世界征服は、満州地下資源の獲得、中国の人的資源の征服、インドなど南方の制圧、東進によるアメリカの壊滅という四段階からなっているという。 ●国力(170頁) モーゲンソーは、地理、天然資源、工業力、軍備、人口、国民性、国民の士気、外交の質、政府の質という九つの要素に国力を分類した。その上でモーゲンソーは、外交の質を最重要に位置づけたのである。 ☆関連図書(既読) 「NHKさかのぼり日本史外交篇[1]戦後」井上寿一著、NHK出版、2012.09.25 「NHKさかのぼり日本史②昭和」加藤陽子著、NHK出版、2011.07.25 「回想の日本外交」西春彦著、岩波新書、1965.02.20 「日本の外交」入江昭著、中公新書、1966.. 「アメリカ外交とは何か」西崎文子著、岩波新書、2004.07.21 (2014年6月24日・記) (「BOOK」データベースより)amazon 情勢判断の甘さ、世論への迎合、交渉の早い見切り―“外交敗戦”の積み重ねが、戦前日本の命運を決した。軍部の独断専行だけでは解き明かせない、敗戦への道。
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太平洋戦争直前から中国再統一までさかのぼります。もとがテレビ番組なので、平易で理解しやすいように思う。
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