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瞳孔の中 の商品レビュー

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2013/10/03

『私は肩をだれかの肩にぴったりと並べて座り、まだ家にいるときに本としおりの間で考えはじめたことを、じっくり考え抜こうとしていた。ところがこのベンチでは、だれかがもう考えていた、しかも声に出して』ー『しおり』 あっという間に文字の中にのめり込み熱中して読み進めているというのに、ふ...

『私は肩をだれかの肩にぴったりと並べて座り、まだ家にいるときに本としおりの間で考えはじめたことを、じっくり考え抜こうとしていた。ところがこのベンチでは、だれかがもう考えていた、しかも声に出して』ー『しおり』 あっという間に文字の中にのめり込み熱中して読み進めているというのに、ふと気付くと幾らも頁は進んでいない。思考がふらふらと漂ってしまっているのでは、決して、ない。むしろ脳は、右から左へ文字が立ち上げる意味を次々に処理している為、過熱気味であると感じている程であるのに。軽々と読み終えてしまいそうな厚さの本は、いつまでも手元にまとまった残りの頁を押し付けてくる。軽い眩暈を覚える。 言葉の押し広げ得る世界が広大であることに率直に思い至る。幻想的であるとか、空想的であるとか、その可能性を余り簡単な言葉で畳み込んではいけないと自省する。事実、クルジジャノフスキイの言葉に一見したところ何かふわふわとしたものを誘(いざな)うようなところはない。一つひとつ、一歩ずつしか進まない論理の積み上げがなす数学の証明のような文章である。言葉の連なりが立ち上げる世界もまた、そんな雲のように手応えのない表現が当てはまるようなところは一切なく、言葉の裏側には饐えた低温の固い過去の現実が見え隠れする。 しかし一方で一つの文章と次の文章の間には思考の跳躍が要求されるような隔たりが確かにある。言葉尻だけから見れば見過ごされかねないその隙間に落ち込んでしまったとしても、最初はその事実に気付くことはないのだが、ふと言葉を追いかけていた筈の自分の思考が行き止まりの袋小路にはまっていることに気がつき、数行前、時には一頁も前の文章から道程を辿り直している。まるで雪嵐の中でクレバスにすっと落ち込んで、目の前の白が、雪のそれではなく氷の壁のそれであることに突然気付くような驚き。そういえばさっきふわっと浮き上がるような感覚が確かにあったと思い返す。断片的であるようには思えないのだが、カフカに通じるらしい既視感が手元には残る。カフカのポートレート写真を連続させたような文章が機能させる脳の動きと似た目まぐるしさが、クルジジャノフスキイの言葉にも確かにあるように思う。 幾つもの層をなすメタ化の構造も、また思考の流れを遮るものだが、厄介なのは一つ上のレベルにシフトアップするメタ化が見えているその鼻先ですぐにまた一つ下位のレベルに思考の流れが押し下げられること。ここで迷子になってはいないと路傍の草を栞ながら歩んでいた筈であるのに、やっぱり何処かで道に迷う。最後に辿り着いた句読点のメタレベルが一体どこにあったのか。考え直しても仕方が無い。手折った筈の茎はどこにも見当たらない。同時に流れる並行世界のどれかに、それはきっとあるのだろうと諦観する。選び取った選択肢を、無しにすることは決して出来ない。 無名であったが故に粛清されることもなかったというのは、果たして幸福であったのか、不幸であったのか。その稀有な読書体験を得ることが出来た読者にとってそれはもちろんこの上なく幸せなことだと思うけれども、無名であったことを利とし、身体を縮こませ、頭上をサーチライトが通り過ぎるよう、頭を低く保つことが、他人の批評はどうあれ、作家本人に打ち据えたものは決して小さくはないだろう。まして、生前、作品を世に問うこともままならなかった作家にとっては。その噛み締めた奥歯から流れる鉄の味を自分は容易に再現出来る者であるけれど。

Posted byブクログ