シェイクスピア劇の「女」たち の商品レビュー
・楠明子 「シェイクスピア劇の〈女〉たち 少年俳優とエリザベス朝の大衆文化」(みすず 書房)は書名通りの書であつた。書名と版元からこれが啓蒙書の類ではないと容易に想像できる。実際、その通りであつて、シェイクスピアをきちんと読んでない人間には難しいだらうと思ふ。私はそれ以下の、シェ...
・楠明子 「シェイクスピア劇の〈女〉たち 少年俳優とエリザベス朝の大衆文化」(みすず 書房)は書名通りの書であつた。書名と版元からこれが啓蒙書の類ではないと容易に想像できる。実際、その通りであつて、シェイクスピアをきちんと読んでない人間には難しいだらうと思ふ。私はそれ以下の、シェイクスピアをまともに読んでゐない人間であるがゆゑに、よく分からないところがあつて確かに大変であつた。それでも、この時代の演劇について少しぐらゐは知ることができたと思ふ。その意味ではそれなりにおもしろかつた。 ・この時代、オペラの世界ではカストラート、去勢男性歌手が人気を博してゐた。カストラートと少年俳優は全く別の存在であるやう にも思ふが、その一方でどこか似た存在ではないかとも思ふ。本書ではカストラートには一切触れられない。一方は変声以前の少年、 一方は変声以前の声を保つために去勢した歴とした男性、変声前といふ共通点はあるものの、違ひの方が大きいのかもしれない。さう してこれより少し後の日本では若衆歌舞伎が人気を博し、やがて禁止された。風紀紊乱を問はれたのである。これは主として所謂レ ビュー形式であつたので、役者はさういふ目で見られてはゐても、それなりに演技をしてゐた。本書を読みながら、カストラートは成 人男性であるから演技力と歌唱力は優れてゐたに違ひないが、スターであつただけに性的にはどんな存在であつたのかと思ひつつ、ま たエリザベス朝の少年俳優は演技力で劣つてゐたかもしれないが、その若さゆゑに性的な魅力に満ちた存在であつたのであらうと思つてゐた。あるいは日本の陰間茶屋如きものも存在したのであらうと。まあ、こんな不純なことを考へながら、「彼らは当時の厳しい訓 練を受けレトリックには長けているものが多かったとはいえ、何分にも、若年であり精神的には未熟な面も残っていただろう。女役が 少年によって演じられることを常に念頭に置きながら、シェイクスピアは作劇したと考えられる。」(「おわりに」209頁)などとあるのを読むと、日本とは大いに事情が異なるのかと思つてみたりもする。実際、日本に王立劇場などといふものはなかつたわけで、 そこに所属する少年の生活は保障されてゐたのであらうのに、日本では生活の糧は自分で稼ぐしかなかつたはずである。これが演技の差になるわけではないが、変声前の少年は確かに未熟であつたと思ふ。そんな少年の演技を助けるのが劇作家の台詞であつた。若衆歌舞伎はレビューみたいなものであつたから、それほどの演技力は不要であつたらう。日本では劇作家登場の余地はほとんどなかつた。 そこにシェークスピアである。劇作家が助けないと劇中の女性が生きないのである。そこで彼が女性をいかに造形したか。これをごく簡単に現代の言葉で言つてしまへば、記号化された様々な女性を使つたといふことであらう。当時の理想的な女性、貞淑な女性、あるいは逆のお転婆、おしやべり等々のじやじや馬、かういふ女性のひな形が様々な形で当時流布してゐた。大衆文化である。例へばバ ラードであり、書物等の印刷物であつた。かういふものを使ふのである。極端な場合はそのまま使つたりもしたらしい。さうすれば観客はそれだけでこの女性がいかなる存在であるかを理解できる。それにより少年の負担が減る……簡単にいへばこんな仕掛けであつ た。きちんとシェークスピアを読んでいれば、注などにあるこの手がかりになりさうなことに気づく。私はそんなのは気にしないでき た。本書から、そんなバラードでも読み捨てにできないと知つた。役者が少年であるがゆゑの特殊性といへば確かにさうなのだが……。
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