花祭りの起源 死・地獄・再生の大神楽 の商品レビュー
・山崎一司「花祭りの起源 死・地獄・再生 の大神楽」(岩田書院)は書名通りの書である。つま り、花祭の起源に関はる大神楽を正面から論じてゐるのである。大神楽、これはオーカグラと読む。「花祭は神楽を母胎として成立した祭りで あった。」(「はじめに」4頁)そこで神楽、現通称大神楽から...
・山崎一司「花祭りの起源 死・地獄・再生 の大神楽」(岩田書院)は書名通りの書である。つま り、花祭の起源に関はる大神楽を正面から論じてゐるのである。大神楽、これはオーカグラと読む。「花祭は神楽を母胎として成立した祭りで あった。」(「はじめに」4頁)そこで神楽、現通称大神楽から花祭の起源を考へようと本書が生まれた。しかし、結局「本書では大神楽の全 容を提示するにとどまってしまった。」(「あとがき」251頁)大神楽があまりに大きく、花祭の謎があまりに深いからである。さうはいつ ても、本書は実におもしろい。大神楽の内容を説明するにあたつては、必然的に現行の花祭を参照することになる。これが花祭に対して抱いて ゐた私の疑問をかなりの部分で解いてくれるのである。月並みに言へば目から鱗である。 ・本文中、豊橋市の御幸神社の花祭に触れたところがある。正確には、御幸神社が分地を通して曽川につながつてゐるがゆゑに、今は廃絶した 曽川に代はつて出されたのである。巫女のお伴たる爺と婆である。これは今も人気演目であらう。氏はこれを見た「ときの感動は忘れることが できない。」(110頁)と書く。何をするのか。誤解を恐れずに言つてしまへば、かまけわざであるはずの性行為を行ふのである。感染呪 術、田遊び等でよく行はれる。孕み女が出てくることも多い。これが御幸神社で行はれるのである。私にはその理由が分からなかつた。田遊び ならば五穀豊穣を願ふですむ。しかし花祭ではどうか。様々な事柄からかなり無理な解釈をして、田遊びに同じと考へることはできるかもしれ ない。ほとんどこじつけである。これに対して、本書では爺婆を明確に、「この演技によって大神楽の生成の教理が説かれていた」(同前)と する。「村の子が神の子として誕生したことを村人たちに理解させるためには、性交・妊娠・出産という過程を演じてみせる必要があったの だ。」(121頁)といふ。今も花祭や湯立て神楽に対して「生まれ清まり」といふ用語を使ふ。それは陰暦11月の物皆衰へた時期に、それ を回復させるために湯立ての湯を浴びるといふやうな感じで説明される。ところがさうではないのである。あくまで子が生まれる、子を産む、 出産であつた。現行の花祭では「〔生まれ清まり〕が削除され」(同前)てゐる。しかも性行為や孕み女は田遊び等によく出てくる。そこで東 薗目の孕み女も西薗目田楽の孕み女との関連で考えてしまふ。この発想自体がまちがひであつた。大神楽には仲人や悪阻といふ次第もあつたと いふ。それに先立つ猿楽能の爺婆である。かまけわざではないのである。これは花祭を知るために大神楽を知る必要があるといふ一例でもあつ た。氏に倣つて、私もこの一節を読んだ時の感動は忘れることができないと書いておかう。似たことは他にもある。最後の神返しの一環として 「さきがみ」「おぼろけ」といふ次第がある。なぜ紙を裂くのか、なぜ伊勢国か、おぼろけ、ひぼろけとは何か。伊勢は湯立てだからと思はな いわけではないが、やはりいささか違ふ。氏はこれは「去り神」であるといふ。それが「去り紙」との掛詞になり、「白紙を空中に飛ばすこと で、神仏を帰還させ」(235頁)るのだといふ。確かに神返しである。続く「おぼろけ」も神返しなのだが、伊勢は後に訛つた音であるらし い。古くは「イニシエノ ハナノヲホロケ」(226頁)とあつた。ただ、おぼろけ、ひぼろけの説明はない。周知のこととされてゐるのであ らうか。このやうに書いていけばまだ出てきさうである。いづれも目から鱗の類である。本書は現行の花祭理解の一助になる。氏の研究の今後 の進展を期待したい。
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