こころが折れそうになったとき の商品レビュー
この著者は声高になにかを主張する、イデオローグ的な書き手ではない。だが、彼の声は私の心に深く響く。それはこの著者自身が彼が敬愛する鶴見俊輔の思想を身を以て生きている、「実践する」エッセイストであり大げさに言えばアクティビストでもあるからだろう。様々な人びとの声を実に丁寧に拾い、そ...
この著者は声高になにかを主張する、イデオローグ的な書き手ではない。だが、彼の声は私の心に深く響く。それはこの著者自身が彼が敬愛する鶴見俊輔の思想を身を以て生きている、「実践する」エッセイストであり大げさに言えばアクティビストでもあるからだろう。様々な人びとの声を実に丁寧に拾い、そこから決して蔑ろにすることのできない「ひとりの人生」を立ち上げる。ボブ・グリーンに似ていると言われているそうだが、確かにタッチは似ている。沢木耕太郎的でもあり、しかしカッコつけたところのないリラックスした態度において私は信頼したい
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300人以上の人と会い、話を聞き、感動したものを書籍にして、5冊。その百近くの話を振り返ったのが本書。これまで語らなかった著者自身の考えについて本書では紙面を割いて述べている。 「つらい話をたくさん書いてきた。 … こうした話はどれも、気軽に話せるようなことではない。どちら...
300人以上の人と会い、話を聞き、感動したものを書籍にして、5冊。その百近くの話を振り返ったのが本書。これまで語らなかった著者自身の考えについて本書では紙面を割いて述べている。 「つらい話をたくさん書いてきた。 … こうした話はどれも、気軽に話せるようなことではない。どちらかというと人に知られたくないようなことの方が多い。よく話してくれたものだと思う。 そのような話を原稿にして、発表する前に当人に読んでもらう。そのとき私はいつもドキドキする。『こんなことを書かれたら困る』とか、『私はこんな人間じゃない』といわれたらどうしようと思うからだ。もちろん、修正意見には応じる。しかし、根本から違うといわれたら、もう、私にはその人のことが書けなくなってしまう。 いままでのところ幸いそういうことはない。むしろ、喜んでくれた。」 「人から話をきく。人はそのとき思い出すままに話す。出来事の種類はばらばらだし、長かったり短かったりする。それぞれの時間は前後しているし、関係も原因だったり結果だったりしている。そんな中で、いくつもの出来事がポツンポツンと見えてくる。… それを家に持ち帰って、じっくりと眺める。そして、私がグッとくるところ、つまり感動するところを見つける。そこを中心に、必要な出来事を並べる。そして出来事と出来事をつないでいく。… この作業を、私は勝手に『物語化』と呼んでいる。そしてこの『物語化』によって、できあがった文章を読み、当人たちは喜びを感じ、発表しても良いといってくれたのだと思う。 発表しても良いといわせたものは、『物語』の力ではないだろうか。」 「体験の客体化は自分ひとりではなかなかできない。自分にとっては、どの出来事も重要に思えて、体験の中心がどこにあるのかが見極めにくいからだ。私という他人が、感動したところを中心に、出来事を並び替え、ひとつながりのものとすることにより、作品となり、客体化は完成するのだと思う。 それでもやはり浅野の『自己物語はいつでも『語り得ないもの』を前提にし、かつそれを隠蔽している』という言葉を忘れてはいけないだろう。 私の書いたものは、彼や彼女の人生の一部分でしかない。とりあえず彼らの姿だ。作品の外側にはもっと長く、もっと膨大な、もっと重い人生がある。 アルバムをパタンと閉じても忘れられない過去はある。」 「私は、『困難に陥ったときに人はどう自分を支えるのか』という問題意識を持って、人に会い話をきいてきた。それらの中のいくつかの共通点をつかみ出し、この本に書いた。『自分の物語化』や『困難な状況を名づける効果』や『自分を笑う』ことなどだが、そのいずれもが、自分から距離をとる意識の持ち方のことだったと、須原の本を読んでわかった。 困難な状況下の自分を客観視するという方法は、危機回避の方法として人間の脳に仕組まれている一種の認識の仕方らしいのだ。」 「世界情勢を認識しようと、本を読んだり、新聞を読んだりしました。でも、行動できないんです。悩みました。その後、何年か経って、考え方が逆だったと気づきました。世界、日本、学生、そして私ではなくて、私、学生、日本、世界と行くべきだ。私の欲望があって、それを邪魔するものがあり、それと戦うことが日本の問題になり、世界の問題になるというのが筋じゃないかと思いました。」 「困難に陥っている人にごく自然に手をさしのべることのできる人がいる。一方、困難の中にいても、自分を見ていてくれる人がいることを知ったとき、そのことを受け入れ、ありがたいといえる人もいる。 こんな人たちがいること、こんな事実に出合ったときに、私は感動している。 自分の感じたことだけが、自分を内側から変化させる。私に欠けている公共心や道徳を自分なりに作っていくことができるとしたら、こんな場所からだろうと思っている。」 「『隣の芝生』も『自分はまだまし』も『プラス思考』も、それだけを取り出してみれば、社会の原理を説明してくれる考えではないし、人々の行動の根拠を意味づけてくれる倫理でもない。むしろ、他人よりも自分が大切といった考えが強く、良いか悪いかでいったら、あまり良いものではないかもしれない。しかし、私は、彼らの生きるいまを支えていることを重く見たい。そこには、この言葉を必要とする切迫感がある。 私が出会った人で、困難なときに、丸山眞男や加藤周一、カントやフーコーの思想や言葉が支えてくれたというような人はひとりもいなかった。」
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レビューを見て興味を持ち、読んでみた。 上原氏の著作を読んだのはこれが初めてである。 タイトルやレビューから想像した内容とは少し違ったが、読み応えがあった。 心が折れそうになった時はこうしたらいい、というような 単純であったり押し付けに近かったりするような内容ではなく、 どうしたら良いのか、どうするのか、どうしたのか ということをひとつひとつのエピソードから、人に体当たりで取材したり 様々な創作物から引用したりして、人の考え方、そこから得た自分の考えが書かれている。 これが良いとかあれが駄目だとかいったことはひとつもなく、 人それぞれのやり方があるのだと実感した。 将来のことを考えるのは結構だが、その為に今を犠牲にするのは違うと思う。 自死した哲学者のエピソードは中々に衝撃だった。 また、自分探しという言葉に対する自分の疑問について、 明快に書きだされており非常に共感した。 自分探し自体は否定されるべきことではないはずなのだが そこに感じる違和感というのは、どこかへ行けば自分が見つかるという 安易で他力本願なやり方をする自分探しと、 自分自身を見つめ直す自分探しとは全く違うものと言えるのに 一絡げに議論されることが多いからだと思う。 自分を深く掘り下げていけば、井戸が地下水脈に繋がるように 外に広く繋がっていうというのはなるほどと思った。 心が折れそうになった時、自分を支えるのは自分の経験と そこから何を得て何を決めどこへ進むかということであり、 そんな自分を形作ったのは今まで出会ってきた、親をはじめとする周囲の人間関係なのだと思う。
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「将来のことを考えては今を生きていけない」という話を訊き、週末に居場所を持たない土曜出社して一日を過ごす男女のことを語る。自死した哲学者の家族や友人を訊ねて、自殺の畏怖を確認する。自分探しの掘り下げ方を就職活動生に探ったり、人が救いを求める啓蒙やスピリチュアルの言葉を、実用面から...
「将来のことを考えては今を生きていけない」という話を訊き、週末に居場所を持たない土曜出社して一日を過ごす男女のことを語る。自死した哲学者の家族や友人を訊ねて、自殺の畏怖を確認する。自分探しの掘り下げ方を就職活動生に探ったり、人が救いを求める啓蒙やスピリチュアルの言葉を、実用面から「限界哲学」と考えてみる。 上原隆自身の、生きることに対する強い関心に貫かれた取材内容にも「共感」することしきりなのだが、共感させられてしまう、「ノンフィクション・コラム」と称する上原の書き物のスタイルに興味を持った。 本書の「「物語化」の力」というコラムで上原自身がスタイルを証している。 「私の考えている「物語化」は、フィクションや理論のことではない。/私の「物語化」は一人ひとりの体験を物語のように組み立てるということだ。そうした作業だということと、フィクションではないということを示すために、私自身は「物語化」といっている。」 上原の考える「物語化」は意味深長だと思った。過去の自分と現在の自分をつなぎ、無意識を意識につなぐ「物語化」によって、人びとの体験を紡ぎ出す。さらに著者は、「物語化」はそれを感動的に紡ぎ出すためだと自覚的である。取材をし上原自身が深めていった感動を前景化することが、著者の「ノンフィクション・コラム」の肝だ。読者に上原自身の感動を追体験させることでしか、人びとの体験を客観的な対象に押し上げることができないと言わんばかりの、著者の自信の表れである。が、共感しなくては摑めない人びとの物語、ひいては、人びとを通じてはじめて見えてくる著者自身の、読者自身の物語があるということを、上原はこの本を通じて「感動的に」伝えていることが重要なのだと思う。
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これまでのコラムは、他者を暖かいながらも客観的に淡々と描写することによって「人が困難に直面した時にどう対応するのか」を書き綴ってきた. 今回は、一転して自身の内面をさらけ出し、内面を奥のほうまで掘って掘って掘りまくる. 「良き自分探し」とは内面に向かって自分を掘ること、「悪しき自分探し」とは自分の外側に向けて、どこか別の場所に行けば本当の自分が見つかるのではないかとさまようこと. 62歳とは思えないような、悪く言うと「青臭い」悩みもどんどん開陳してくれる. 人がいざというときに頼りにするのは「限界哲学」いわゆる俗な日常にありふれた言葉であるのは納得がいくものであった. いかにありふれた言葉であろうとも、その言葉が心に腑に落ちてしっかり根付いていれば、言葉の高貴さや俗さはあまり問題じゃないんだと思う.
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