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奈良時代の政争と皇位継承 の商品レビュー

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2013/05/01

冒頭に研究史整理がなく、読み始めてみると他者の学説への批判や補強論文が中心で、体系的な学説というよりは、個々の出来事における著者のこれまでの雑論文を単に時系列にまとめたものなのかとがっかりしていたら、読み進める内に次第に引き込まれていきました。(笑)著者があとがきで記すように本書...

冒頭に研究史整理がなく、読み始めてみると他者の学説への批判や補強論文が中心で、体系的な学説というよりは、個々の出来事における著者のこれまでの雑論文を単に時系列にまとめたものなのかとがっかりしていたら、読み進める内に次第に引き込まれていきました。(笑)著者があとがきで記すように本書が取り扱った奈良・平安初期は、政変・政争のオンパレードであり、ドロドロの陰謀劇と顛末、それに背景に大きく興味がそそられます。(笑) 第Ⅰ部は「孝謙・淳仁朝の政争と皇位継承」ということで、藤原仲麻呂による安積親王暗殺疑惑から始まって、橘奈良麻呂の変での一断章、藤原仲麻呂の乱の経緯とその背景などを、草壁皇統を維持しようとする聖武・光明の政治構想や最終的な孝謙と淳仁の決裂に絡め、論断していく。草壁系統を伝えるようとしていた聖武の皇子・安積親王の病死により、阿倍内親王(孝謙)の立太子を主導した光明皇后と藤原仲麻呂(南家)は、元正太上天皇-橘諸兄勢力との政争の中で孝謙即位にこぎつける。母親として、聖武の意志を継ぐものとして光明皇太后-紫微中台令・仲麻呂路線により政治は主導されたが、草壁皇統断絶が自明となったことで、次いで舎人皇統である大炊王(淳仁)を立太子・即位させることになった。光明亡き後、淳仁-仲麻呂路線による政治主導は続き、不本意な退位となった孝謙太上天皇による草壁系統という正統性の主張と、太上天皇と天皇の帝権分離宣言にも関わらず、天皇の象徴である「内印」と「駅鈴」を持つ淳仁に天皇権力があったとする。しかし、孝謙から仕掛けたともされ、また仲麻呂が孝謙に謀反を仕掛けたともされる藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱にて仲麻呂は潰え、返す刀で孝謙による淳仁廃位によって、淳仁-仲麻呂による律令機構を背景とした勢力が、血の直系としての伝統的な支配権威に打ち負かされたのだとしている。 第Ⅱ部は「称徳・光仁・桓武朝の政争と皇位継承」ということで、称徳・道鏡政権の実態、大納言・藤原真楯薨伝の実際について、そして、称徳(=孝謙)後の光仁擁立に至った背景や桓武による皇統維持のための謀略事件などを取り上げる。貴族官人層と対峙した称徳-道鏡政権は硬軟を使った取り込みを行うなどその掌握に苦慮したとするが、一方、称徳は淳仁殺害や甥の氷上志計麻呂の追放など自らの皇位を脅かす存在を排斥する。しかし、後継者を決めないまま没したという称徳後、藤原永手(北家)・良継(式家)・百川(式家)が称徳の意志ではない天智系・白壁王(光仁)を推し擁立したとする。ちなみにここで批判された瀧浪説の中で称徳-道鏡政権の評価の学説については(宇佐八幡宮信託事件は「一瞬の狂気」)笑ってしまった。(すみません。元論文読んでないです。)光仁朝では井上皇后・他戸皇太子が廃される事件があり、藤原式家の策謀で桓武が擁立されたが、桓武排斥を狙う氷上川継事件にかこつけて、自身を擁立しなかった京家・藤原浜成を不当に貶めたり、大伴家持が首謀したとされる藤原種継(式家)暗殺事件にかこつけて弟である早良皇太子や甥の五百枝王を斥け、我が子の安殿親王(平城)を立太子させた桓武の執念には空恐ろしさを感じた。 当該時代は史料的制約が大きく、本書のほとんども『続日本紀』に拠っているのだが、それこそ解釈の違いによる百家争鳴の感がある。自分にはどの学説も批判する見識は無いのだが、それぞれの事件背景や皇統を巡る強い意志を興味深く知ることができてなかなか面白かった。どちらかというと著者の見解はオーソドックスな感があるが、諸説も含め確認できたのも楽しかった。 『万葉集』は未完のまま没した大伴家持の後を継いで、五百枝王が完成させたのですね。知らなかった。それにしても大伴家持っていろいろな事件に顔を出していたんだなあ。(笑)

Posted byブクログ