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「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について の商品レビュー

3.8

29件のお客様レビュー

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2016/03/25

311以降の1年を振り返った、ツイートやエッセイ、論評や小説の冒頭などで構成された本。メディアも、SNSやブログ、新聞・雑誌と多様だ。内容の重複もあり、これら全てが綺麗にまとまるはずもなく、その混沌があの日からの日々そのものだったと、著者は語る。 震災と津波そのものの災害よりも、...

311以降の1年を振り返った、ツイートやエッセイ、論評や小説の冒頭などで構成された本。メディアも、SNSやブログ、新聞・雑誌と多様だ。内容の重複もあり、これら全てが綺麗にまとまるはずもなく、その混沌があの日からの日々そのものだったと、著者は語る。 震災と津波そのものの災害よりも、長引く原発事故から巻き起こる非難の応酬や同調圧力、エネルギー問題などを巡る人々の混乱が、それぞれの相容れない「正しさ」を創り上げていく。そんな中で、著者は日常通りの生活を過ごすことで、変化を受け入れようとする。 5年目を迎えた2016年3月11日は、あの日と同じ金曜日だった。著者がパーソナリティーを務めるNHKラジオの番組「すっぴん!」では、著者自身によってこの本からの抜粋が朗読された。あの日は、ご長男の保育園の卒園式という記念すべきハレの日。日常の一部であり、それでいて特別な家族の平和なシーンの朗読をバックに、保育園で人気だという歌『LET'S GO! いいことあるさ』が流れた。 メロディーはどこかで聞いたことがあると思えば、オリジナルは"Go West" The Village Peopleで、カバーはPet Shop Boys。東日本で起きた災害で、自国民でありながらどこかしら疎外感が離れなかった西日本にいる自分は、これからどこへ行こうか?何を開拓しようか?いいことあるだろうか?そう思わずにはいられなかった。 ただ過ぎ去っただけでなく永遠に失われた未来を背景に、子供たちの無邪気で元気な声で希望と未来が連呼される。慌ただしい朝の番組なのに、聞いていて思わず泣けてきた。 http://www.nhk.or.jp/suppin/podcast.html また、著者が教壇に立っていた大学では卒業式が中止されたが、卒業生に宛てた祝辞は複数のツイートとして贈られた。これも、自身によって改めて朗読された。最後の卒業から時間が経った大人にも、今も深く響くメッセージだ。 作家・高橋源一郎(@takagengen)さんの「震災で卒業式をできなかった学生への祝辞」 http://togetter.com/li/114133 元々、書籍の内容が多面的・多層的だった上に、さらに時間軸という深さも加わった。今も残るソースを一緒に辿ることで、改めて立体的に「あの日」を感じられる本であった。

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2015/09/25

ツイッターの言葉は日記風で内容が乏しいように感じたけれども、後半の色々なところへ寄稿した文章集は味わい深いものが多かった。 高橋源一郎は随筆が良い。

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2015/01/26

Twitterのつぶやきと文章が大体半々。 震災以後1年弱の間に著者が綴った言葉を収録した一冊。 もう少し早く読めばよかったなあ。 でも読めてよかった。とっておきたい一冊になりました。

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2014/07/28

同窓の先輩にして現代日本を代表する知の巨人、高橋源一郎氏の「あの日」から同年内のテクスト集。 「『あの日』から僕が考えている事」とも被り、散文集ながら興味深い内容だった。

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2014/05/26
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

東日本大震災とそれに伴う原発事故。Twitterで語り続けた作家の「考え」がリアルタイムで記録されていたことに注目したい。時間と共に「考え」は変わっていく。あまりにも巨大な「敵」の出現に翻弄されながらも、日常のくらしは続いていて、ささやかな子供との対話に救われたりもする。この3年間で変わってしまったのは直接の被災者はもちろんのこと、すべての日本人がそうであるようにも思う。「正しさ」について考え続けることはなかなか大変だ。でもそれをしなくてはいけない。

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2013/06/14

高橋源一郎はやっぱりほんとうに信頼できる。真摯な、やわらかい言葉はすっと入ってきて違和感がない。高橋源一郎のことばを読むと、なんとなく良さそうに見えていた実はそれほど良くないことば、というのがはっきりとわかるようになる。心が折れそうになっている個人の側に立つ、真の文学者によるこの...

高橋源一郎はやっぱりほんとうに信頼できる。真摯な、やわらかい言葉はすっと入ってきて違和感がない。高橋源一郎のことばを読むと、なんとなく良さそうに見えていた実はそれほど良くないことば、というのがはっきりとわかるようになる。心が折れそうになっている個人の側に立つ、真の文学者によるこの本を読むことで、わたしはすこしずつ、あっだいじょうぶかもっておもえるようになる。ありがたいなあ。 --「正しい」という理由で、なにかをするべきではありません。「正しさ」への同調圧力によって、「正しい」ことをするべきではありません。あなたたちが、心の底からやろうと思うことが、結果として、「正しさ」と合致する。それでいいのです。もし、あなたが、どうしても、積極的に、「正しい」ことを、する気になれないとしたら、それでもかまわないのです。……あなたたちには、いま、なにかをしなければならない理由はありません。その「時期」が来たら、なにかをしてください。その時は、できるなら、納得ができず、同調圧力で心が折れそうになっている、もっと若い人たちの分も、してあげてください。

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2013/01/27

2011年3月11日以降、この年に高橋源一郎が書いたツイッター上の「ことば」と、この年に書いた小説、評論、エッセイ(ものによってはその書き出し部分)が編まれた本。3月11日からのあの年に、何を書こうとしたかを知ってもらいたいと思った、と書いてある。 2009年の暮れにツイッタ...

2011年3月11日以降、この年に高橋源一郎が書いたツイッター上の「ことば」と、この年に書いた小説、評論、エッセイ(ものによってはその書き出し部分)が編まれた本。3月11日からのあの年に、何を書こうとしたかを知ってもらいたいと思った、と書いてある。 2009年の暮れにツイッターを始めたという高橋は、ある晩「午前0時の小説ラジオ」という番組を始めた。午前0時から1時間近く、一つのテーマについて連続してツイートする。そうしてインターネットの「海」へ流れていった「ことば」について、高橋は、「街頭に立って、ギターを弾いたり、詩を朗読する人のようだった」(p.4)と書く。 ▼多くの場合、街頭を歩く人は、ほとんど無関心で、その弾き手や、朗読者の横を通りすぎてゆく。それでいいのだ、と思った。生々しい「ことば」が飛び交い、直接、取り引きされる現場に、自分の「ことば」を置いてみること。それは、ずっと、ぼくがやりたかったことのような気がした。(p.4) 高橋はそれまで、ツイッター上の「ことば」を出版してみませんかという申し出を断ってきた。だが、このたびの本に出版するつもりのなかった「ことば」を載せようと思ったのは、「「あの日」の前と後で、なにが変わったのかを知りたいと思ったからだ」(p.7)という。 そんな高橋の「午前0時の小説ラジオ」で流された「ことば」の一節。 ▼「正しさ」の中身は変わります。けれど、「正しさ」のあり方に、変わりはありません。気をつけてください。「不正」への抵抗は、じつは簡単です。けれど、「正しさ」に抵抗することは、ひどく難しいのです。(p.33、2011年3月21日の「午前0時の小説ラジオ」、テーマは「祝辞」) ▼プラグマティズムは南北戦争の焦土の中から生まれた。「自分たちは正しい」という二つの主張のぶつかり合いが無数の死者を作り出した。だから、一群の人たちは、対立ではなく、自分の正しさを主張するのでもなく、世界を一歩でも良きものとする論理を生み出そうとしたのである。(p.132、2011年10月17日の「午前0時の小説ラジオ」、テーマは「分断線」) ▼祝島は、みんなで手をつないで、ゆっくり「下りて」ゆく場所だ。「上がって」ゆく生き方だけではない、そんな生き方があったことを、ぼくたちは忘れていたのだ。それは、確実に待っている「死」に向って、威厳にみちた態度で歩むこと、といってもいい。(p.163、2011年12月12日の「午前0時の小説ラジオ」、テーマは「祝島」) 『We』が、"「こうあるべき」という正論を極力排して、「ゆらぎ」や「迷い」を大事に"誌面をつくっていきたい、と言ってるのと、なんか似てる気がした。 私はむかし、かなり「正しい」人だった。「正しい」ことを言いつのる人間だったな…という自覚がある。その「正しさ」で人との間がぷつっと切れたこともあるし、ぶったぎったこともある。いまもたまに(あ、自分は「正しい」ことにこだわっているかも)と思うことがある。私がなんで「正しさ」につかまるようになったのか、そこは自分でもよくわからないけど(親の影響もそれなりにある気はするが)、「正しさ」は気をつけないとこわいもんなんやと、あるとき気づけたことは、よかったなと思う。 私はいまのところツイッターをしてみようという気はないが、路上のギター弾きのような、というのはちょっとおもしろいなと思った。 (1/23了)

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2015/05/13

2011.3.11以後のある東京在住の作家のつぶやき もちろん、著者の高橋源一郎は「あの日」以前からツイッタ―を始めていました。でも、ラジオでのつぶやき(『午前0時の小説ラジオ』)は現代日本の作家では群を抜いて今日性にビビッドに関わっている彼ならではの試みで、小説や評論、エッセイ...

2011.3.11以後のある東京在住の作家のつぶやき もちろん、著者の高橋源一郎は「あの日」以前からツイッタ―を始めていました。でも、ラジオでのつぶやき(『午前0時の小説ラジオ』)は現代日本の作家では群を抜いて今日性にビビッドに関わっている彼ならではの試みで、小説や評論、エッセイの「ことば」とは別な何か、即興的な、その場その時の生もののようなものとして扱いたいゆえ、一冊の本としてまとめるつもりはなかったようです。 しかし、「あの日」にはツイッタ―というツールの利便性が突出しました。ただ繋がらんがための「ことば」ではなく、緊急の情報交換の手段としての言葉が必要とされたわけです。筆者は以前と同じように「ことば」を話すことも、書くこともできなくなったそうです。けれども、いつにも増して、たくさんの「ことば」を書いた、「あの日」の後で・・・その中心にツイッタ―での「つぶやき」があったわけです。 たしかに筆者の言うように、「どんな場所でも、人は、ことばを発することによってしか、理解し合うことはできない」と思いますが、ツイッタ―はあくまでも、アドホックに、機動性を持って情報交換する場であって、理解を深めるのは別の場所でというのが僕の考えです。信頼醸成のきっかけにはなると思うけど、相互理解を構築するのは無理だと思うからです。ツイッター自体がコミュニケーションの目的で、追いかけ合って、互いに確認、慰撫、トモダチの輪自慢であっても全然かまわないんですけど、公開「なう」の横行で、ホントは一人一人にリアルな生のカタチがあるはずなのに、「リア充」という規格化が進み、グラデーション無き棲み分けによって、その場その場のコミュニケーションが枯渇してしまうんじゃないかな。 それはともかく、本書には小説や評論やエッセイも収められています。それらはツイッターに「放流」した「ことば」によく似ていると筆者自身が書いています。僕は筆者の小説をこよなく愛読(フォロー?)してきましたが、そのスタイルからしてその作品と作者を切り離せないんですよね。だから震災以降の筆者のドタバタ、家庭生活、執筆状態、交友等、ツイッターで知ることができたことを改めて活字で追いながら、たとえそれが正確なドキュメントであろうとなかろうと同じ「ことば」で表現されている以上、フィクションであり、『恋する原発』と地続きなんだなと思いました。

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2012/07/12

地震のあった年に、氏が発信したtweetと書いたものの冒頭の引用。 趣旨には賛同したのだけれど、私にはtweetは再読だし、書いたものは冒頭の一部だしで、残念だけれど物足りない。結局、かなりの消化不良。

Posted byブクログ

2012/07/09

「あの日」からわたしは、気になった本をいろいろ読んだり、している。何に「正しさ」があるのかはあいかわらずわからないのだけれども。高橋氏の「恋する原発」(『群像』2011年11月号掲載)も読んでみよう。

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