ゴダール 映画史 の商品レビュー
ゴダールが1978年にモントリオールで行った映画史についての講義を収録したもの。 僕は昔からゴダール映画の良き観客ではない。 学生時代は、名画座に通ってはずいぶんたくさんの映画を観たが、トリュフォーやベルイマンやワイダなどが中心で、ゴダールはほとんど観なかった。 その後、テレビや...
ゴダールが1978年にモントリオールで行った映画史についての講義を収録したもの。 僕は昔からゴダール映画の良き観客ではない。 学生時代は、名画座に通ってはずいぶんたくさんの映画を観たが、トリュフォーやベルイマンやワイダなどが中心で、ゴダールはほとんど観なかった。 その後、テレビやDVDで観るようになっても、「勝手にしやがれ」、「女と男のいる舗道」、「軽蔑」などは観たが、たぶん10本は観ていないのではないか? なんとなく、ゴダールの映画は観終わったときにこれというシーンが残らない気がする。/ 読み始めから読了まで、多大な時日を要した。 この原因の半分は、僕の怠け癖にあるのは言うまでもないが、残りの半分はゴダールのせいだろう。 本書のゴダールは饒舌だ。 だが、その割に引用マニアの僕が引用したくなるような言葉は少ない。 言ってみれば、「ペラ回し」が多い。 というわけで、給水地点での給水がままならないので、怠け者の完走は余計に困難になる。 700ページを超える本なのに、果たして心に残る言葉があるだろうか? だんだん不安になって来る。 まあ、あと200ページだ、もったいないからなんとか頑張ってみるか。 枯れ木も山の賑わい? それにしては、ボリュームがありすぎるよ。/ 数々の名画の有名なシーンのネガだかロールシャッハテストの問題集なのか分からない画像が文中にたくさん挿入されているが、あれが普通に映画の名シーンのカラー写真だったなら、僕の読書もずいぶんと捗ったのではないかとも思う。 というわけで、僕にとってこの本は噛みすぎたチューインガムか温め直しし過ぎたピザのように、ほとんど味がしなくなってしまいました。/ 【かりに人々が映画の講義のなかで、自分はこれまでどんな映画を見てきたかを、またそれらをどう見てきたかを知ろうと努めるとすれば、それは立派な仕事になるはずです。ひとつの映画史をつくることになるはずです。そこにはひとつの映画史全体があるのです。(略)これまでにつくられているべきで、しかもこれからも決してつくられそうにない唯一の映画史は、映画の歴史ではなく、見られた映画の歴史、映画を見つづけた観客の歴史です。】/ これって、きっと文学にも言えるよね。/ 【私はいつも引用ばかりしてきました。ということはつまり、私はなにも創出しなかったということです。私はいつも、本で読んだりだれかから聞いたりした言葉をノートに書きとり、そのノートを手がかりにして見つけたいくつかの事柄を演出してきたのです。】/ ちょっと何言ってるか分かんない!/ 【『ウィークエンド』の世界は、よりずっと錯綜し、雑然とした世界です。(略) 私はこの映画では、叫びとか歌とかにより近いところにいるのです。 私はそうしたことをしようとしたのですが、でもあまり成功していません。それというのも、すべてをまぜあわそうとすると、(略)どうしても混乱してしまうからです。まぜあわされてできたものを明瞭に提示するというのは、かなり難しいことなのです。しかも、私はいつもそうした映画をつくろうとしてきたのです。】/ 【回顧ものというのはひとつのビジネスです。‥‥‥経済上の取引です。製品に名前をつけ、それを市場に売り出す、ひとつの産業です。それだけのものです。】/ はたしてそうだろうか? 僕には、歴史とは読み手/書き手の数だけヴァージョンのある物語のような気がしてならないのだが。 【昼と夜は、二つが一緒になって二十四時間をつくっているのです。】/ 善と悪は、二つが一緒になって一人の人間をつくっているのです。
Posted by
12/28は シネマトグラフの日 1895年フランス、複合映写機であるシネマトグラフで、初めて映画が商業公開。映画史を楽しみましょう。
Posted by
2019年12月18日の明治学院大学横浜キャンパスでの「さらば大学@高橋源一郎最終講義」にて高橋源一郎が引いた本で、迷うような時に開く、と言っていた。ぼくの本棚にも二十年以上も常にすぐ手の届く場所に置かれているのに二十年も開いていない(のでこれを書くにあたって開いた)。言わずと知...
2019年12月18日の明治学院大学横浜キャンパスでの「さらば大学@高橋源一郎最終講義」にて高橋源一郎が引いた本で、迷うような時に開く、と言っていた。ぼくの本棚にも二十年以上も常にすぐ手の届く場所に置かれているのに二十年も開いていない(のでこれを書くにあたって開いた)。言わずと知れた有名本がいまは文庫で一冊にまとまっている。
Posted by
読みやすいのに驚き。文庫で2400円に驚き。 「一本の映画の中には、自分がその中にいた部分や外にいた部分、わきにいた部分などがあるわけです」 「ひとは見ているものを見ることも、見られているものを見ることもできます」 「私はこの映画でも、何かをコピーしようとしました。結局のところ、...
読みやすいのに驚き。文庫で2400円に驚き。 「一本の映画の中には、自分がその中にいた部分や外にいた部分、わきにいた部分などがあるわけです」 「ひとは見ているものを見ることも、見られているものを見ることもできます」 「私はこの映画でも、何かをコピーしようとしました。結局のところ、それが私のやり方だったのです。」
Posted by
「私は映画の歴史を、単に年代的なやり方で語るのではなく、むしろ、いくらか考古学的ないしは生物学的なやり方で語ろうと考えていました……私に興味があるのは、まさに、自分がかつてつくったものを見ること、そしてとりわけ、自分がかつて作った何本かの映画を利用することなのです」…ということで...
「私は映画の歴史を、単に年代的なやり方で語るのではなく、むしろ、いくらか考古学的ないしは生物学的なやり方で語ろうと考えていました……私に興味があるのは、まさに、自分がかつてつくったものを見ること、そしてとりわけ、自分がかつて作った何本かの映画を利用することなのです」…ということで、一癖も二癖もある、ゴダール独特の切り口で、映画で彼が何を考えているのか、語られている。興味深かったのが「文盲教育」というところで、言葉を用いない思考、「見る」ことにはいかなる可能性を持っているのか、そしてそれにかける氏の情熱が何となくよくわかる気がした。話し言葉で書かれているので、リズムは馴染みやすいが、所々難しいことが書かれたりしているので注意。
Posted by
とにかく分厚い。その全てが理解できるわけではないし、そもそもきちんとゴダール作品を見れていない自分が、何をどこまで理解しているのか、はなはだ心もたない。しかし、まあ、それでも、ゴダールの映画史=作品群の考察において、彼が映像を使って何を企てようとしているのか、それが何となく見えて...
とにかく分厚い。その全てが理解できるわけではないし、そもそもきちんとゴダール作品を見れていない自分が、何をどこまで理解しているのか、はなはだ心もたない。しかし、まあ、それでも、ゴダールの映画史=作品群の考察において、彼が映像を使って何を企てようとしているのか、それが何となく見えてくる。それは恐らく「言葉」を用いずに「思考する」ということであろう。
Posted by
私は映画についてはほとんど何も知らないに等しく、たいして見てないし、ゴダールの作品もわずかしか体験していない。 ゴダールの映画は、まだはっきり正体がつかめないものの、言葉と映像が無数の断片として氾濫する様は、やはり音楽で言う「現代(前衛)音楽」の立場に似ているのだろうな、と理解し...
私は映画についてはほとんど何も知らないに等しく、たいして見てないし、ゴダールの作品もわずかしか体験していない。 ゴダールの映画は、まだはっきり正体がつかめないものの、言葉と映像が無数の断片として氾濫する様は、やはり音楽で言う「現代(前衛)音楽」の立場に似ているのだろうな、と理解していた。 この本を読んで、まさに私の直感は当たっており、ゴダールが既製のさまざまな映画、あるいは今まさに自己が作りつつある映画に対して厳しく批判的に問い直しながら歩んでいるのだということがわかった。この「批判性」こそ、私が現代音楽(現代芸術)の一つの特質として解していたものだ。 さらに、私が「作品は、先行し、周囲にとりまいている諸々の他の作品と関係しながら、その関係性そのものにおいて、生まれてくる」と考えていたのと同様のことを、ゴダールも語っていて感激した。ただしかれは「関係性」という言葉を使わず、「表現」に対する「感化」という語を用いている。 スピルバーグやイーストウッドのような大衆的に人気のある映画を徹底的に批判しながら、その魅力をもゴダールはちゃんと理解している。 また、この本によるとコラージュふうに切断された映画作法にもかかわらず、ゴダールは「物語ること」にほんとうは強い欲求を持っているらしい。で、それらしく物語ろうとした「メイド・イン・USA」では何故か失敗し、逆に何も物語ろうとしなかった「男性・女性」では、「物語」が成立した、というのは興味深い。 ゴダールは、物語ることは、現在ではただアメリカ合衆国においてのみ可能になっている、と語る。なるほど、これは非常に鋭い指摘だ。ポストモダンにおいて「大きな物語」が不可能となったヨーロッパでは、「物語ること」という行為のために必要な何かが崩壊してしまったが、米国人はいまだに「物語」を持ちうる、ということだ。たとえそれが狂気じみた帝国主義に見えようとも。 映画好きでもゴダール通でもない私にも、この本は非常に面白かった。「作品を作る者」として、示唆される部分が非常に大きかった。他の映画通ではない芸術制作者たちにも、一読をおすすめしたい。
Posted by
ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール 映画史(全)』読んだ。1978年ぐらいの講演録。700ページ以上の元々分厚い文庫が半分ぐらいのページ折ってさらに分厚くなって線も引きすぎてなんのこっちゃわからなくなったがすこぶる面白かった。個別の映画についてどうこうというのではなく自作につい...
ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール 映画史(全)』読んだ。1978年ぐらいの講演録。700ページ以上の元々分厚い文庫が半分ぐらいのページ折ってさらに分厚くなって線も引きすぎてなんのこっちゃわからなくなったがすこぶる面白かった。個別の映画についてどうこうというのではなく自作について、映画の製作について、映画製作者について、かつての仲間たちについて、観客について、歴史について、戦争について、金について、自由奔放に語り続ける内容だった。 いい映画を作るためには人はもっと話さないといけない、であるとか、デッサンや写真をもっと活用するべきだ、シナリオというものを書けたためしがないし書けてしまったら映画にする必要がない、かつてのハリウッドは働く人々が工場労働者みたいな働き方をしていたから面白い映画を作ることができた、テレビはシリーズものが作れるので有効な媒体だ、フィクションとドキュメントの区別をつけることにそんなに意味はない、映画史は文学になりがちだけど映像だけで綴られるべきだ、そしてそれはまだ存在しない、といったことを繰り返し発言していた。 カイエ時代に標榜した作家主義を、自分たちが映画の世界に入るため、あるいは人に聞き耳を立てさせるための戦略でしかなかったと言ってばっさり切っているけれど、それでもやっぱり映画を語るために召喚される固有名は監督なんだよなあと。 いくつかの作品を上映する際は通して見るのではなく、断片と断片をつなぐようにして見るべきだ、ということも何度も言っていて、それがのちの『映画史』につながったのかと思うと、買ったはいいけど見惜しみしているDVDボックスを早く開けなきゃとなったし、ゴダールの各作品も見直したいし、ここに挙げられている作品もどれも見たいという強い誘惑に駆られる。
Posted by
「言葉では言い表せないくらい」という表現をよく見る。感謝している、とか、愛している、とかの副詞として使われることが多い。言い表せているじゃないかと思う。まぁこれはいちゃもんに近いし、文脈にもよるので、一概にその表現じたいが悪いとは言わないが、その言い回しを使う場合はせめて何とか...
「言葉では言い表せないくらい」という表現をよく見る。感謝している、とか、愛している、とかの副詞として使われることが多い。言い表せているじゃないかと思う。まぁこれはいちゃもんに近いし、文脈にもよるので、一概にその表現じたいが悪いとは言わないが、その言い回しを使う場合はせめて何とか言葉で表そうとする努力を経た上で、それでもどうしても言葉では不十分だといったときにだけ使ってほしいものだ。 この言い回しに限らず、文章にあまりこだわらない人(端的に言うとものを考えない人)はとにかく決まり文句をやたらに使いたがる傾向があって、特にパセティックな慣用句を使って感情の処理はそれでこと足れりとする場合が多く、読む側としては面映い気持ちになる。思考は主に言葉によってなされるわけだが、決まり文句を使ってしまうとそれに引きずられる、というか予めわかりきっている内容しか出てこなくなる。というか、そもそも思考と呼ぶに値しないただの文書作成になってしまうことが多い。言葉は自己増殖するもので、予め頭の中にある考えを外に現すためにだけ使われるべきものではない。書きながら考えるのである。あるいは、言葉それ自身が思考するとでも言おうか。すでに書いた言葉に触発され、次の言葉が出てくる。だから、予め頭の中に、決まり文句によって導き出された思考とも呼べない既存の言葉の塊を形成しておいて、それをそのまま表現されても、はっきり言うと読むに耐えない文章になる。 これと似たようなことが写真についても言える。ゴダールによれば、写真をとるために言葉を書く人は多いが、書くために写真をとる人は少ない。つまり、予め目的意識をもってあるイメージなり観念なりを書いた上で、実際の写真を撮ろうとするひとは多いが、何かを書くなかでどうしても写真を必要とし、そのために写真をとる人は少ないということだろう。写真には常に予想外のものが写っている(ロラン・バルト)のだから、内容が予め決められている写真というのはせっかく写った予想外のものに対する関心がなく、貧しい。一方、書くことが主体で写真が付随してくる場合は、そこで使われる写真の内容全てが等価であり、意味を持つ。そういう写真を撮るのはかなり難しいことではあるけれど、優れた写真家はみな内的な必然に従って写真を撮っているのだろう。 書く=考える=生きるなかで必然的に見出してしまう方法によってものを作り出す。コンセプトがまず中心にあってそこから、あるいはそこへ向かってものをつくるのではない。もちろん時代や状況によってコンセプト先行の技芸にも意味がないわけではない。しかし、そういったコンセプトなり方法はすぐに古び、当初はそれ以前にあったものに対するアンチとして、反権威として出てきたものが今度は自分自身がその権威になりおおせ、また別の新しいものによって乗り越えられるべき対象とみなされることになる。コンセプトや方法それ自体を探し求めついに見つけ出すことができたとしても、それは歴史の中の一つのコマに過ぎなくなることが最初からわかっている。だから、あくまで内的必然性、その人の身体性から直接立ち上がってくる結果としての方法をこそ彫琢していかなければならない、と思う。 以上、「ゴダール 映画史」を読みながら考えたことをつらつらと書いてみたが、レヴューにはなっていないかもしれない。
Posted by
- 1