領土 の商品レビュー
諏訪哲史さん三作目。 うーーーん。詩を解さない私には難解すぎた。 最後まで読むのにめちゃめちゃ時間かかっちゃったな…。 でもやっぱり言葉の並びや響きは好き。
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めくるめく諏訪哲史の世界。 意味とか感動とか新しさとか読み易さとかとは無縁の、ただただ身を任せる読書。 中毒性を持ったリズムを内に秘め、読者を幻惑する。 なんだこの気持ち良さ。
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作者の言うとおり、野蛮に小説の枠や常識を壊す小説集。 妙な単語。地名。 母恋。 尿意。 などオブセッションや悪夢からくるモチーフがちりばめられる。 この人の小説を読むと小説を書きたくなる。
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詩とは何か、小説とは何か。その間にある溝は、深いのか浅いのか。純文学とはより詩に近い小説である、と私は定義していたが、小説として詩に近いとはどういうことか。詩であることの意味、また、小説であることの意味とは何であるのか。 言語芸術として、詩と小説は同じカテゴリーに属している。しか...
詩とは何か、小説とは何か。その間にある溝は、深いのか浅いのか。純文学とはより詩に近い小説である、と私は定義していたが、小説として詩に近いとはどういうことか。詩であることの意味、また、小説であることの意味とは何であるのか。 言語芸術として、詩と小説は同じカテゴリーに属している。しかしその中で、詩は詩として、小説は小説として認識されている。それは単に形式だけの問題であるのか。詩の中にも散文詩というものがあり、小説の中にもこの『領土』に収録されているような作品がある。 あとがきの中で、諏訪さんは自身を「小説狂」であると述べている。その言で行くなら、私は「言葉狂」だ。同じ言葉を扱う以上、私にとってはそれが詩であっても小説であっても構わない。それでもなお私は、より小説を好んでいる。「物語」ということを考えたけれども、詩に物語が無いわけではない。それでは、なぜ。 言葉としての小説を好む私も、突き詰めていけば、この作品集のような小説にたどり着くのだろう。一見、詩であり、それでもなお小説である作品。詩と小説の境界線ぎりぎりの作品。否、その境界線の在処そのものが不確かなのだ。しかし、そのあやふやな境界線を志向していく行為こそが純文学の一つの在りようなのかもしれない。
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やっと読み終わった。 最初のシャトー・ドゥ・ノワゼにて と終わりの二つ、中央駅地底街 と 先カンブリア が私は好きだった。最近『お供え』を読んだからかもしれないけれど、あの作品で描かれていた、なんともいえない気持ち悪さとか得体のしれない不気味さのようなものって、男性が書くとこうい...
やっと読み終わった。 最初のシャトー・ドゥ・ノワゼにて と終わりの二つ、中央駅地底街 と 先カンブリア が私は好きだった。最近『お供え』を読んだからかもしれないけれど、あの作品で描かれていた、なんともいえない気持ち悪さとか得体のしれない不気味さのようなものって、男性が書くとこういう風になるのかな…とぼんやりと思った。 一見すると詩のようなこの形式は、作者曰く"文章の'音'や'拍子'に指示譜=楽譜の働きを付加するための苦肉の策"らしい。確かに読者に一定のテンポで読ませるためにはこういうことも必要なのかな、と。私自身は特に後半、あまり「(所謂)小説」を読んでいる感じはしなかったが、声に出してみたくなるところはいくつかあった。これは作者の意図した通り、なのかどうか。笑
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