アレンスキー の商品レビュー
アントン・アレンスキイは、『クラシック音楽作品名事典』で「チャイコフスキイの亜流」と評されていた。そういう寸評というのは記憶に残るもので、私の認識もそんなもの。あとは、ニコライ・ルビンシテイン追悼のチャイコフスキイのピアノ三重奏曲《偉大な芸術家の思い出に》、それに影響を受け、チ...
アントン・アレンスキイは、『クラシック音楽作品名事典』で「チャイコフスキイの亜流」と評されていた。そういう寸評というのは記憶に残るもので、私の認識もそんなもの。あとは、ニコライ・ルビンシテイン追悼のチャイコフスキイのピアノ三重奏曲《偉大な芸術家の思い出に》、それに影響を受け、チャイコフスキイ追悼のために書かれたラフマニノフの《悲しみの三重奏曲》というロシアの伝統の中に、チェリスト、ダヴィドフを悼むアレンスキイのピアノ三重奏曲も並べられるという知識くらい。 もっとも、2曲の交響曲と前述のピアノ三重奏曲第1番、ヴァイオリン・ヴィオラ・2つのチェロという特異な編成の弦楽四重奏曲第2番(これはチャイコフスキイ追悼のため)はディスクを持っている。交響曲など聴くと、薄味にリファインしたチャイコフスキイという感じで悪くない。むしろ交響曲第1番などチャイコフスキイというより、カリンニコフやボロディンのような民族色が香しい。おっと、チャイコの亜流じゃないの? これは重要な論点で、19世紀後半、ザンクト・ペテルブルクではリムスキイ−コルサコフら、民族主義的なロシア五人組が活躍し、モスクワには西欧的なチャイコフスキイが陣取っていた。ペテルブルク生まれのアレンスキイは、ペテルブルク音楽院でリムスキイ−コルサコフに師事し、交響曲第1番は卒後すぐに書かれたのである。そのあと、モスクワに教職を得た彼はチャイコフスキイと親しくなる。面白くないのはリムスキイである。アレンスキイの死後、かつての師が述べた次の言葉もまた、アレンスキイの評言となる。「若い頃アレンスキイは私の影響から、のちにチャイコフスキイの影響から逃れられなかった。あいつは早晩忘れ去られるだろう」。 アレンスキイは天才肌といえば聞こえはいいが、問題の多い人で、むら気でおだてりゃ木に登るが、貶せばぷいといなくなる。26歳の年、一過性の精神錯乱に陥るが、女性関係の乱脈からくる心労だったらしい。6年間宮廷合唱団の雑務をこなすと、そのあとは飲酒やギャンブルにふけり、結核になって、44歳で亡くなってしまった。そしてリムスキイの言うとおりになった。ほとんど忘れ去られたのである。 ロシア・アヴァンギャルドとソヴィエトの音楽のなかにアレンスキイの居場所はないが、それよりもまずモスクワ音楽院の教え子、スクリャービン、ラフマニノフ、メトネルの影に隠れてしまったのではないかというのは、なるほどと思う。アレンスキイの本領は交響曲でも室内楽でもなく、ピアノ小品であり、ピアノ学科の学生は難技巧のこの3人の曲を練習する前にアレンスキイを練習するといいのだそうだ。 といったことを教えてくれる、本書は本というよりブックレットだが、アレンスキイに関する日本で初めての本格的な文献である(と著者が記している)。ちょっと調べてみても英語のモノグラフもないようだ。ペテルブルクとモスクワのあいだ、チャイコフスキイとスクリャービンのあいだに落ち込んでしまったアレンスキイの音楽は「豊饒なロマンティシズムとリリシズムを湛え、極めて洗練された和声支えられた美しく親しみやすい旋律を持ち、抜群のセンスによって仕上げられたものである」。
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