小津安二郎名作映画集10+10(10) の商品レビュー
1956年のモノクロ映画「早春」は小津安二郎の戦後の作品の中では、かなりの異色である。 物語はいつもの「家族」を中心とした構成でなく、東京の電車で通勤する30歳前後の若者たちの「群像」のほうがむしろ中心を占めている。家屋内は不思議と暗く描かれていて、何かがいつもの小津映画と違...
1956年のモノクロ映画「早春」は小津安二郎の戦後の作品の中では、かなりの異色である。 物語はいつもの「家族」を中心とした構成でなく、東京の電車で通勤する30歳前後の若者たちの「群像」のほうがむしろ中心を占めている。家屋内は不思議と暗く描かれていて、何かがいつもの小津映画と違う。無人の光景のカットを挟んでいくあの手法も出てこない。 主人公の夫婦は子供を早くに亡くしており、2人だけの世帯だ。この時点で「風の中の雌鳥」ともちがう。まるで最近の日本の世帯のようにこぢんまりとしていて、人物たちは同じ世代同士でつきあい、楽しんでいるように見える。 主人公(池部良)が通勤仲間のきれいな女性(岸恵子)に積極的に迫られ、一晩をともにする。実に羨ましい限りである。 ところが主人公は真面目なので、関係は一晩限り、その後も不倫を続けようとはしない。それでも奥さんにばれ、実家に帰られてしまうという話。 この奥さん(淡島千景)、なんとも倦怠期の夫婦のおもむきを醸し出している。ちょっとツンツンしているし、ダンナが酔っ払った兵役時代の旧友を連れてくると冷たくし、あとでだらしない連中だと悪口を叩く。「あんなんだから、日本は負けたのよ」などとまでほざいてくれる。 まるでうちの奥さんのような、「かわいくない妻」なのだ。これなら浮気もしたくなるさ・・・。 しかしもちろん、映画(というか、ドラマをえがく諸種の文芸)は人物を断罪するものではない。それぞれの人物はそれぞれのロジックに従いまっとうに生きているのであって、それが互いに絡み合ってドラマを生み出していく。これはシェイクスピアでもモーツァルトのオペラでもそうだし、ドストエフスキーの小説でもそうだ。 この夫婦は結局はどちらも善良であり、一度の脱線で壊れるには惜しいのだ。(近頃はもっと簡単にみなさん離婚してしまうけど) 最後の方で会社の先輩である笠智衆が「夫婦はいろいろあってだんだん、本物の夫婦になっていくんだよ」という台詞を言うが、これがこの映画の本筋を位置づけている。つまり30前後はまだ人生の「早春」であり、季節はこれから深まっていくところだ。 この映画はこうした「本筋」とは別に、同じ世代の若者たちの会話からうかがえる、サラリーマン生活やら税金やらの世相が克明に表出されており、当時の状況がわかって面白い。 この作品の前作、大ヒットした「東京物語」は大衆に感傷的メロドラマとして受け止められ、そのことを小津安二郎は気に病んでいたらしい。だから、この作品では思い切って違うことをやったのだろう。 いつもと違う。それも結構。私も音楽を作っているからわかる。作り手というのは、ときには違うことをやりたくなるし、どんどんやればいいのだ。好きなようにやればいいのだ。外野は黙っておれ。
Posted by
- 1