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文明の災禍 の商品レビュー

3.7

11件のお客様レビュー

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2017/11/04

某所読書会の課題図書.気になる言葉が頻出.供養(p15),大量の情報を受け取ると,不思議なことに私たちの判断能力を弱体化させる(p62),確かなもの,確かな実体は私たちにはとらえられないものとして存在しているのだろうか(p83),人間の営みが未来の時間を破壊した(p101),創造...

某所読書会の課題図書.気になる言葉が頻出.供養(p15),大量の情報を受け取ると,不思議なことに私たちの判断能力を弱体化させる(p62),確かなもの,確かな実体は私たちにはとらえられないものとして存在しているのだろうか(p83),人間の営みが未来の時間を破壊した(p101),創造なき破壊(102),専門性という名の下におこなわれる暴力(p113),働く人たちの生活を犠牲にした経済発展だけを考えるような体制(p136),伝統社会から継承してきた現代文明とは異なる文明を私たちは基層的文明として持ち続けてきた(p159).最後の方に出てくる 利他と自利は重要な視点だと感じた.

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2015/12/21

市井の哲学者 内山節が、東日本大震災を通して日本社会の姿を浮かび上がらせる。深い論考であるが、平易な表現で分かりやすい。 著者の文章は、大学入試の国語の論述文で、よく使用されるとのこと。受験生である息子からの情報。受験は追い込みの時期。よくがんばっている。

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2014/09/15

科学という文明がもたらした災禍が原発事故によって明らかになった。 自然災害に科学の力、人間の力が及ばないということの他に、そこから起こった情報の錯綜。正しい情報を得ることができない科学の専門性の深さと世の中に流れる情報の多さ。 そうではなく、地に足の着いた生活の範囲内、情報の範囲...

科学という文明がもたらした災禍が原発事故によって明らかになった。 自然災害に科学の力、人間の力が及ばないということの他に、そこから起こった情報の錯綜。正しい情報を得ることができない科学の専門性の深さと世の中に流れる情報の多さ。 そうではなく、地に足の着いた生活の範囲内、情報の範囲内で生きてはどうかというもの。

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2013/05/23

あまり印象に残らなかった。以前読んだ「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」に比べて、内容の広がりや実証が少ない上に、著者の体験に基づいた記述が少ないからだと思う。 「情報を受け取りすぎて、適切な判断ができなくなる」 「専門家の暴走」 あたりは共感した。 ただ、どーに...

あまり印象に残らなかった。以前読んだ「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」に比べて、内容の広がりや実証が少ない上に、著者の体験に基づいた記述が少ないからだと思う。 「情報を受け取りすぎて、適切な判断ができなくなる」 「専門家の暴走」 あたりは共感した。 ただ、どーにも著者の「ソーシャルビジネス」や「コミュニティ回帰」あたりの主張も、分かるようでわからない。 正直、書きたくて書いたような感じがあまり感じられなかった。 時代は著者のような考え方を持つ人を必要としているとは思うし、だからこそ手にとって読んだんだけど、やっぱり彼は哲学者であって運動家や思想家ではないんだなぁと。 次もきっと読むだろうけど、私は内山節のもっともっと自由に書かれたものが読みたい。

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2012/03/21

それほどおもしろい内容ではなかった。 p.68にあるような情報の価値基準についての筆者の考え方こそが、p.110で述べるような、いわゆる「専門家」を作ったのではないか。現代では、情報はブラックボックス化しがちである。それは悪意ある隠蔽であるかもしれないが、たんに市民の怠慢であるこ...

それほどおもしろい内容ではなかった。 p.68にあるような情報の価値基準についての筆者の考え方こそが、p.110で述べるような、いわゆる「専門家」を作ったのではないか。現代では、情報はブラックボックス化しがちである。それは悪意ある隠蔽であるかもしれないが、たんに市民の怠慢であることも往々にしてあるだろう。「専門家」からの「暴力」に対抗するには、「餅は餅屋」という考え方を改める必要があるのだろう。 本書の称賛すべき点は、「放射性物質に関しては、論理的に『風評被害』は存在しないと考えた方がよいと私は思っている。」(p.55)と震災数ヵ月後に表明したことではないかと思う。

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2012/02/23

2011年3月11日の東日本大震災。 地震・津波による被害を自然の災禍、福島原発事故を文明の災禍とし、 震災以降の日本の目指すべき、あるべき姿を述べた本。 電力はじめ人間にはどうにもできない大きなシステム基盤に 依存した日本に対して警鐘を鳴らしている。 哲学者らしく、着眼点が...

2011年3月11日の東日本大震災。 地震・津波による被害を自然の災禍、福島原発事故を文明の災禍とし、 震災以降の日本の目指すべき、あるべき姿を述べた本。 電力はじめ人間にはどうにもできない大きなシステム基盤に 依存した日本に対して警鐘を鳴らしている。 哲学者らしく、着眼点がとてもユニーク。 復興には自然と死者の役割が必要のように、 一般的な見方や切り口とは別のとらえ方をしているのも面白い。 専門家集団の暴走が現在の日本を形成したという考えも納得。 改めてリスク管理の重要性を感じるとともに、 専門家集団の暴走をおさえるためにも、 素人による管理・検証体制の必要性も感じた。

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2012/01/14

原発事故を原発だけの問題としてとらえるのではなく、それは文明の災禍であり、戦後、求心力をもったあるイメージの崩壊でもある。 また、戦後思想の見直しが必要であること、私たちが暮らしたかったのは、システムをコントロールできない恐ろしい社会ではないと言う内山氏の言葉にただ頷くばかり。 ...

原発事故を原発だけの問題としてとらえるのではなく、それは文明の災禍であり、戦後、求心力をもったあるイメージの崩壊でもある。 また、戦後思想の見直しが必要であること、私たちが暮らしたかったのは、システムをコントロールできない恐ろしい社会ではないと言う内山氏の言葉にただ頷くばかり。 何冊か原発に関する本を読みましたが、哲学者の方が書かれたこともあるのでしょうが、生き方と言う言葉で表現してしまっていいのか分かりませんが、そういったことをもっと深い次元で考えさせられました。 私たちの奥底に巣くっていた、指摘されなければ気がつかない、無意識に支配されていた思想を指摘され、私には本当に目からウロコでした。 原発事故によって文明、思想というものが大きくゆらいでいる今、これから人々はどの道を行くのか、今は本当に大切な分岐点にいるのに、それを、単に経済成長がどうのこうのという面だけで考えていては、再び同じような過ちをおかしてしまいかねない。 この本を本当に多くの人に読んでもらいたいと思います。 お薦めの一冊。 http://glorytogod.blog136.fc2.com/blog-entry-1063.html

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2011/10/31

内山先生のお話を伺う機会があり、早速購入。3.11以降、腑に落ちないことが多い中、ひとつの考え方を示してくれています。多様な関係(自然との関係も含めて)を作ることが人間の本質。確かにそうですね。とても参考になりました。

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2011/10/16

震災後失われたものはなんだったのか。それは「未来の時間」である。原発事故は我々に現代文明が生み出した大きな矛盾を突きつけている。どうやって新しい思想を打ち立て、生きていくのか。厳しい問いがすべての人に投げかけられている。

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2011/10/14

 東日本大震災における自然の災禍と、それとともに起きた福島原発の人災という文明の災禍とが起きた後に、自然と人間、そして人と人の関係をどのように編み直して生きうるのかを、文明に対する根本的な反省にもとづいて探究しようとする論考。その議論が死者の「供養」を出発点としていることは、印象...

 東日本大震災における自然の災禍と、それとともに起きた福島原発の人災という文明の災禍とが起きた後に、自然と人間、そして人と人の関係をどのように編み直して生きうるのかを、文明に対する根本的な反省にもとづいて探究しようとする論考。その議論が死者の「供養」を出発点としていることは、印象的である。死者を置き去りにした空々しい「復興」の未来に血道を上げるのではなく、まず死者を弔い、その死を引き受けながら、生死が隣り合う現実に向き合うのでなければ、一歩も前に進むことはできないという。その地点から著者は、原発の人災に立ち至った文明そのものの問題へ踏み込んでいく。その議論によると、自然のなかに生きる身体を遊離した知性は、知を「専門家」に独占させたうえに、神話的なイメージとしての情報が飽和した空間を作り出し、そのなかでみずから機能不全に陥ってしまう。その果てに文明は、人が住めなくなった原発周辺の地域が象徴するような、いかなる創造ももたらさない破壊と化したのだ。未来の破壊。これまでの生の営みが根こそぎにされ、後に何も生まれない世界が、もしかすると生きもの自体の内部から産み出されつつあるのかもしれない。そのような状況を、生きることをつなぐ方向へ転換する可能性を、著者は「存在の諒解」のうちに求めようとする。それは自然の生きもののあいだに、他人たちのあいだに生きている、さらに言えばそこで生かされているという感覚を取り戻して、今一度「風土」に根を下ろすことであるという。それによって関係を再構築することが「復興」の前提というのが著者の結論のようである。それゆえ「復興」は、まず「地域の復興」でなければならないというのだ。たしかに、自然と人間、人間と人間の関係の再構築は必要だろう。しかし、それは「風土」に根づくことなのか。「風土」を語ること自体のうちに、あまりにも特殊なものの普遍化が忍び込んではいないだろうか。そして、著者の考える人間に、根を失って日本列島を漂いつつある人々は含まれていないように思えてならない。文明の災禍によって根を下ろしてきた場所を失った後、漂って生きること、漂着した人とともに生きること。その可能性を、共有するものをもたない者たちの関係のうちに探ることのほうが先だろう。さらに、漂着した場所で、身体的に生き方を変えてでも生きうる、生体の可塑性が根底から脅かされていることを、まずは問わなければならないはずだ。

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