「ぐずぐず」の理由 の商品レビュー
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-2011.12.28記- へとへとに、へへなへなに、ぼろぼろに、よれよれに、よぼよぼに、…なる。 ねちねち、ちくちく、おずおず、がんがん、だらだら…やる。 わなわな、ぞくぞく、ずきずき、いちゃいちゃ、そわそわ、うろうろ、にたにた、…する。 もじもじ、いらいら、じりじり、ひりひり、もたもた、なよなよ、ぎすぎす…してる。 じろじろ見る、がみがみ言う、しぶしぶ認める、とつとつと語る、ごろごろ鳴る、しとしと降る、ずぶずぶになる。 やれやれ、うろうろし、よれよれに、どろどろになって、ぎりぎりのところで、それでも文句たらたら、最後は「ぼちぼちでんなあ」… -オノマトペこそ、私たちの「深い闇」が「反訳をもとめて浮かびあがるその場所」ではないのか-
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哲学者鷲田清一による、まじめなオノマトペ考察。つまり、日本語に顕著な擬音語、擬態語、擬声語のお話。これも山崎努著「柔らかな犀の角」の中で紹介されていたい一冊。オノマトペには独特の「豊かさ」があると、ひとつひとつ言葉を取り上げて解説していくが、言語学的というより、随筆、エッセイ的に、その言葉を端緒にいろんな話が展開されていくところが面白い。表題となった「ぐずぐず」の章では、その反意語?の「つるつる」「すべすべ」へと話が移ろい、昨今は、なんでもかんでも、「ミラーボールの反射のように(中略)どんな事件や不祥事も起こればすぐに早く反応をし、(中略)あらゆる出来事が記号として消費されるだけで流れていってしまう」と、滑りがよすぎて、物事の表面しかとらえようとしない世相を嘆く。関西の三大都市の文化を、京都は「はひふへほ」、大阪は「ばびぶべぼ」、神戸を「ぱぴぷぺぽ」だと紹介する個所も面白い。 「ゆらゆら」という言葉からは、揺らめいたり、たゆたっている言葉、遊、幽、憂、悠、夕など、音や語感と結びつく言葉の話を展開。でも、だんだん、辞書でそのオノマトペを引いてみて、その前後につらなるそうした言葉を探して、むりやりひとつの章にまとめてるんじゃないかという疑問が生じてきてしまい、ちょいと後半は疲れてきてしまった。特に、最初から論が展開されて、結論に結びつくという造りでもない一冊なので、また暇のあるときに、好きなページを開いて、つらつらと愉しめたらよいかな。
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オノマトペは、擬音語と擬態語の総称であるが、ここでは擬態語をめぐって、多くの文献の記述も参照しつつ、多面的な洞察を行っている。 擬態語には、単なる「自己感覚による抽象化」を越えて、自分自身を突き放してみる「自己疎隔化」という意味での<批評>と「けなし」というかたちでの<否定>...
オノマトペは、擬音語と擬態語の総称であるが、ここでは擬態語をめぐって、多くの文献の記述も参照しつつ、多面的な洞察を行っている。 擬態語には、単なる「自己感覚による抽象化」を越えて、自分自身を突き放してみる「自己疎隔化」という意味での<批評>と「けなし」というかたちでの<否定>とが、結びついているという。本書の表題となっている「ぐずぐず」はその典型と言える。さらに、声によるふるまいを通して、他者への様々なはたらきかけ(促し、叱責、命令、諭し、訴え、懇願、誘惑、排斥、争い、慰藉、からかい、囃し立て、呆れ、突き放しなど)を含むというのも、「ふむふむ」とうなづける指摘である。 著者が飼っていた九官鳥を籠に戻そうとした時の九官鳥の反応が面白い。その手から逃れようとして、九官鳥は覚えていた3つの単語のうちの一つ「おはよう」と叫んだという。ここから、著者は「わたしたちもまた九官鳥のように、地声をすでになくしている。どんな衝撃的な体験をしても、激痛に襲われた瞬間をのぞけば、もう地声で唸り、訴えることはできなくなっている。すべての体験や反応は、一定の言語体系に従って表出される。発生のシステムがそっくり入れ替わった」ということを発見する。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と謳った田村隆一の詩『帰途』の一節も思い出される。プロ野球の長嶋茂雄が、プレイの指導をしたり、インタビューの受け答えの際にオノマトペを多用して話題になっていたことも思い出される。長嶋茂雄は、オノマトペを多用することで動物的な感性を保ち続けていたのかもしれない。 日本語では多くのオノマトペが用いられることについて、漢字・漢語の表意性に対する反動として、ひらがなの音を用いたオノマトペを多用するのではないかという仮説も面白い。
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私は大好きです。このように、色んな日本語にああだこうだ、書いてくださる著者は日本の宝だと思います。心から尊敬いたします。
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内藤やす子の「思い出ぼろぼろ」、YOUTUBEで確認し、ぽろぽろとぼろぼろでここまで違うか、というオノマトペの威力を思い知りました。
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割と読みやすかった。なるほど、と思うところがたくさんあった。読み終えた後、いろんなオノマトペを使いたくて、わくわく、した。
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言葉が伝える「世界の感触」に深く共感する。「腑に落ちる」というのがよくわかる。 話の内容よりも「話し振り」に強烈な魅力を感じさせる人が確かにいるし、逆もある。ということを連想した。
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「ぎりぎり」「ぐずぐず」などなどオノマトペ(擬態語)を、九鬼周造やメルロ・ポンティ、川田順造などの引用を交え、様々な視点から分析したもの。 しかしながら、時おり駄洒落も挟みながらアレコレと語る様は、いっそのことエッセイとして楽しむべきかもしれない。 語に対するフェティッシュ...
「ぎりぎり」「ぐずぐず」などなどオノマトペ(擬態語)を、九鬼周造やメルロ・ポンティ、川田順造などの引用を交え、様々な視点から分析したもの。 しかしながら、時おり駄洒落も挟みながらアレコレと語る様は、いっそのことエッセイとして楽しむべきかもしれない。 語に対するフェティッシュな感性にグッときつつ、頭に浮かぶのはやくしまるえつこの歌声なのでありました。
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じぶんの存在が「浮いている」と感じるというのは、じぶんが「ここ」にいなければならない理由が見当たらないということである。労働という、システム化された社会に組み込まれるかたちで組織されたひとびとの緊密なネットワークから外れたところに位置するひと、たとえば非定職者や専業主婦は、「ここ...
じぶんの存在が「浮いている」と感じるというのは、じぶんが「ここ」にいなければならない理由が見当たらないということである。労働という、システム化された社会に組み込まれるかたちで組織されたひとびとの緊密なネットワークから外れたところに位置するひと、たとえば非定職者や専業主婦は、「ここ」という場所の感覚が消え入りそうな感覚に襲われる。いや、勤務している者も内心には、能力や資格をもつ者であればだれとでもじぶんは取り換えられるという不安を、ひそかに抱え込んでいる。なにかの仕方でじぶんの身体に重しをかけないと、じぶんの存在が干上がり、爪先立つ場所すらなくなってしまいそうな社会にまとわりつかれている。だからときに、たとえ象徴的な仕方であれ、みずからの身体を傷つけることでじぶんがここにいるという事実を確認することへと、みずからを追いつめすらする。
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言語学では「オノマトペ」と名付けられている、擬態語等について書かれています。 著者のいう言葉の豊穣とは、言葉の行き交いの豊かさのことで、それが欠けていたから言葉への渇望があったというのは共感するところです。
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