三つの物語 の商品レビュー
読みやすい話から段々と読み辛い話に移っていくから、3つの話に対する印象が違う。ある意味正しい形の短編集なのかもしれない。 収録されているのは19世紀初頭のある女性の人生を書いた『純な心』、千年前の世界で栄光と絶望の予言を授けられた男の話『聖ジュリアン伝』、サロメの首をモチーフ...
読みやすい話から段々と読み辛い話に移っていくから、3つの話に対する印象が違う。ある意味正しい形の短編集なのかもしれない。 収録されているのは19世紀初頭のある女性の人生を書いた『純な心』、千年前の世界で栄光と絶望の予言を授けられた男の話『聖ジュリアン伝』、サロメの首をモチーフにしたキリスト誕生の予言をした男によって翻弄される民族を描いた『ヘロディア』の三篇。 『聖ジュリアン伝』がこの中では気に入ったのだが、人によって気に入る作品はそれぞれだろうと思えるほどに三篇の内容は全く違う。しかし、どの作品に対しても言えることは情報量が多いながら構成がとてもしっかりしていることだ。このフロベールは150年も前の時代にいたとは思えないほど、情景、風俗、民族、史実などの様々を完璧に描いている。 どうやら彼は自分が満足いくまで資料集めを妥協しない人だったらしい。また作品をよりリアルに書く事に終始したとか。
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フローベール唯一の短編集であり、生前に刊行された最後の著作、1877年。フローベールの死によって未完のままとなった『プヴァールとペキュシェ』の合間に構想され書かれた。「解説」で紹介されているアルベール・ティボーデによれば、この「三つ」の物語は、【歴史】から芸術を創り出そうとする際...
フローベール唯一の短編集であり、生前に刊行された最後の著作、1877年。フローベールの死によって未完のままとなった『プヴァールとペキュシェ』の合間に構想され書かれた。「解説」で紹介されているアルベール・ティボーデによれば、この「三つ」の物語は、【歴史】から芸術を創り出そうとする際の、【歴史】に対する芸術家の可能な限りの三つの方法的態度であるとされているが、果して。 「まごころ」 物語の舞台は復古王政期から第二帝政期にかけての時代だろうか。19世紀近代はフランス政治史上の大動乱期である。そしてこの【歴史】の大河の中にあって、まるでその歴史の変革とは全く無縁であるかのような、大河の泡沫一つに過ぎない、しかしそこに確実に生きていた、小さなひとりの人間フェリシテ。その小さな日常、小さな幸福、小さな悲哀、小さな人生。オバン夫人、ヴィルジニー、ポオル、ヴィクトール・・・、そして鸚鵡のルル。ここに描かれたひとつの生、その物語には一分の無駄もない。完璧な短編小説であり本作品集中の白眉。「毎朝、彼女[フェリシテ]は眼が覺めると、暁がたの光にその姿[ルル]が見えて、消え去つた日や意味もない數々の事までがこまごまと、何の悲しみもなく、靜かな氣持で、思ひ出された」 「聖ジュリアン傳」 ルーアン大聖堂のステンドグラスに描かれた中世の聖人伝説に材を取っている。狩りに憑かれた男。幻か現か、不吉な豫言者の言葉。何かに憑かれた者――「獸がなければ、人間でも、虐殺したくなつてきた」――は、その無限遠という極端への疾走ゆえに、"世の中"という尺度に居場所をもちえない「・・・自分は今をかぎりもはや世に在るものではない・・・」。そんな人間に於いては寧ろ、【歴史】なるもののほうこそが無限小にまで極微化している。それは"世間"が数多吐き出す駄弁・戯言の一つに過ぎないではないか。【歴史】という perspective など、どうでもいいのだ。であればこその、伝説である。やはり聖人を取り上げた『聖アントワヌぬ誘惑』と同じく、終始、伝奇的・幻想的な趣きに包まれている。 「ヘロヂアス」 サロメの踊りとヨカナンの物語を、サロメの母ヘロヂアスを中心に、聖書や歴史書を精査して書かれた物語。尤も、オスカー・ワイルド『サロメ』のあの世紀末的妖艶さを知っている者からすれば、物語自体が随分と sachelich な書きぶりであると感じるが、それが謂わゆる所の【歴史小説】というものの在りようか。
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『三つの物語』は、「まごころ(純な心)」「聖ジュリヤン伝(ジュリアン聖人伝)」「ヘロヂアス(ヘロデヤ)」の短編三篇から成る。 『ブヴァールとペキュシェ』が未完の遺作となったため、本書はフローベール自身によって公にされた最後の書物である。 この短編三作品は、それぞれに楽しい発見...
『三つの物語』は、「まごころ(純な心)」「聖ジュリヤン伝(ジュリアン聖人伝)」「ヘロヂアス(ヘロデヤ)」の短編三篇から成る。 『ブヴァールとペキュシェ』が未完の遺作となったため、本書はフローベール自身によって公にされた最後の書物である。 この短編三作品は、それぞれに楽しい発見があった。 「純な心」は、フェリシテという女中が主人公の話で、結婚もせず、遊びの愉しみも知らず、欲深さとは無関係の彼女の人生が綴られている。 老いてきた彼女の人生に突如として、鸚鵡が登場する。背が緑で翼の端が桃色、頭が青く胸は黄色で、その鸚鵡をそれはそれはフェリシテは可愛がり、愛情を注いだ。 やがて、鸚鵡が死ぬと諦めきれない彼女はその鸚鵡を剥製にしてもらう。 主人も亡くなり、貧困と孤独のなかでフェリシテは剥製の鸚鵡と過ごすうち、鸚鵡と神を同一視するのであった。フェリシテの最期の場面は思わずほろっときてしまう晩年フローベールの熟練の筆致だ。 この小説を執筆中、フローベールは鸚鵡の剥製をルーアン博物館から借り受け、机上に置いていたという。 ルーアン博物館にもフローベールが博物館より剥製の鸚鵡を1羽借り出し、返却した記録が残されている。 ジュリアン・バーンズの『フロベールの鸚鵡』によれば、そのフローベールが机上に置いた鸚鵡が、二羽存在するという。 一羽は市立病院の一角にある記念館。もう一羽はフローベール邸。どっちも本物といっており、その謎解きとフローベールティストであろう作者が事実を踏まえた小説として構成されていて、このフローベールの鸚鵡の謎の答えは失笑を禁じえないものであった。是非、ルーアンで二羽の鸚鵡を見たかったが、私がルーアンを訪れたのは日曜日。フローベール記念館も邸も閉まっていた。ルーアン美術館には行ったが鸚鵡はおらずカラヴァッジョの見事な絵画があった。 「ジュリアン聖人伝」は、フローベールが故郷のルーアン大聖堂のステンドグラスに刻まれた聖人の生涯に着想を得て書かれたものである。ルーアンの大聖堂といえば、モネが30点の連作を残している。モネが描いたのはカテドラル外観がメインであるが、ルーアンのノートルダム大聖堂はヨーロッパ屈指の聖堂であり、地元の人たちにも愛されている。 ルーアンの大聖堂に行くので、私たちはとりあえずオルセーにモネの大聖堂の連作を見に行った。オルセーには5枚あった。ルーアン美術館には意外にも1枚しかなかった。 西洋には、聖人暦というものが存在する。多くはその聖人が死亡した日が記念日となるが、異なる場合もある。カトリックのキリスト教徒は命名の際、自分の守護聖人の名をつけることも多い。 聖ジュリアン=聖ユリアヌスは、生没不詳で親殺しや数奇な運命を経て、病人や旅人の世話につとめた。看護者や旅人の守護聖人であり、西欧各地に彼の名を冠した医療機関が多くある。 そして、聖人カレンダーに記される聖ジュリアンの記念日は、2月12日。私の誕生日でありジュリアンは私の守護聖人である。(とはいえ私はキリスト教徒ではないのですが・・・) ルーアンの大聖堂で聖ユリアヌスのステンドグラスを見ようと聖堂の中に足を踏み入れると、大聖堂はステンドグラスだらけ(笑)何枚あるのか皆目見当がつかないくらいの枚数。 教会関係者に聞く。その方はフランス語しかできず、私がユリアヌスではなくジュリアンのステンドグラスはどれですかと聞いたから、英語のできる方を連れてきてくれる。 日曜日で教会はミサをしており、本当は信者しか入ってはいけないゾーンに特別に入れて貰う。 フローベールもその場所に立って何度もそのステンドグラスを見上げたのだろう。午後の陽射しがユリアヌスの生涯を浮かび上がらせる。 売店でこのステンドグラスの大判の絵葉書が売られていて購入した。 「ヘロデヤ」は、今では絵画や文学などでサロメの方が有名になったが、聖書には、サロメの母であるヘロデヤの名しかない。サロメの名がはじめて記されるのはフラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』であったと思う。 フローベールは、『聖書』あるいは『ユダヤ古代誌』を元にこの小説を組み立てている。オスカー・ワイルドの戯曲とは異なる。 上にも書いたルーアンのノートルダム大聖堂のファサードにサロメの踊りとヨハネの斬首が彫られている。そのサロメは逆立ちをしている。妖艶で官能的なサロメを見慣れている私たちには少々異質である。しかし、以前のサロメはこのように表現されていたという。 フランスに行くことになり、どこか地方都市へもということになって、最終的にルーアンに決めた。単にフローベールの未読のものをという意図で読んだが、この作品は、ルーアンに行く予定のある方に是非おすすめしたい。旅の厚みを増すこと請け合いだ。
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