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上田閑照集(第2巻) の商品レビュー

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2013/02/16

『西田幾多郎を読む』(岩波セミナーブックス)、『西田哲学への導き―経験と自覚』(岩波同時代ライブラリー)などの中から、西田哲学の「経験」と「自覚」に関する文章を再編集して収録している。 経験は、はじめから言葉によって分節されている。だが経験には、どこまで言葉を尽くしても尽くしき...

『西田幾多郎を読む』(岩波セミナーブックス)、『西田哲学への導き―経験と自覚』(岩波同時代ライブラリー)などの中から、西田哲学の「経験」と「自覚」に関する文章を再編集して収録している。 経験は、はじめから言葉によって分節されている。だが経験には、どこまで言葉を尽くしても尽くしきれないような含みがある。言葉に言い尽くされないような含みが私たちに迫ってくるとき、それまで私たちが経験を理解するために使用していた言葉の枠組みが打ち破られることになる。 さらに著者は、このような言葉が奪われる経験に直面したところから、ふたたび言葉が生まれ出るとき、その言葉の内に無限の余韻が響いているという。こうした連関を、著者は「言葉から出て言葉に出る」と表現するが、これこそが西田幾多郎の『善の研究』の中で、「純粋経験の自発自展」と呼ばれていた事態にほかならない。 こうした「言葉から出て言葉に出る」運動としての「経験」は、言葉の枠組みによって理解されるような経験ではない。むしろ、言葉による理解をも巻き込んで動いてゆくような、より大きな「経験」の運動と理解されなければならない。それはいわばオープンな体系を形作っているのである。 そうしたオープンな体系を内から説明することは、はたして可能なのだろうか。それは、「純粋経験」そのものがみずからを「自覚」することによって可能になる。 経験を自覚する「我」は、経験によって突き破られ、「我なし」というところへ出たあと、そこから「我なし」という事態を自覚しつつふたたび「我」に返るような仕方で「自覚」すると著者は考える。こうした事態が、「我は、我ならずして、我である」と説明される。さらに、「我なし」に開かれるところを「絶対無の場所」と呼ばれて、上の自覚の形式が「自己が自己に於て自己を見る」と定式化されることになる。このとき、「我」の自覚と「我なし」の自覚が重なっているので、「場所が場所自身を限定する」ということもできる。 こうして著者は、純粋経験から自覚を経て、場所へと発展してゆく西田哲学の奇跡を、「経験」そのものの必然的な展開として描き出している。

Posted byブクログ