ツナミの小形而上学 の商品レビュー
善悪というものの捉え方をさまざまな角度から考察した哲学的な内容でやや難解過ぎて理解するのに苦労しました。 そもそも形而上学というのが何か良く分からないで読みましたが、辞書で調べてみると、 1.アリストテレスでは、あらゆる存在者を存在者たらしめている根拠を探究する学問。すなわち第一...
善悪というものの捉え方をさまざまな角度から考察した哲学的な内容でやや難解過ぎて理解するのに苦労しました。 そもそも形而上学というのが何か良く分からないで読みましたが、辞書で調べてみると、 1.アリストテレスでは、あらゆる存在者を存在者たらしめている根拠を探究する学問。すなわち第一哲学または神学。 2.現象的世界を超越した本体的なものや絶対的な存在者を、思弁的思惟や知的直観によって考究しようとする学問。主要な対象は魂・世界・神など。 という意味があるようですが、これまた難しいですね 悪という存在を自然的悪と道徳的悪という2つの観点で捉え、現代での最も大きな脅威(悪)は、悪意をもつ者からではなく、善意の産業が生み出すだろうと予告していたという観点はまさにその通りですね。 その最たる例が原子力発電所というか核なのかもしれませんね。 このまま道徳的悪がはびこれば、ゆっくりだが確実に我々の関知しないところで世界は破局に向かっているという未来への警鐘にはゾクッとさせられました。
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フランス図書に注文しました。 Petite metaphysique des tsunamis http://www.seuil.com/livre-9782020821698.htm ブクログではフランス語版が表示されないので、 便宜的に日本語版を登録しています。 (201...
フランス図書に注文しました。 Petite metaphysique des tsunamis http://www.seuil.com/livre-9782020821698.htm ブクログではフランス語版が表示されないので、 便宜的に日本語版を登録しています。 (2013年3月11日) フランス図書に入荷したそうです。 (2013年3月27日) 届きました。 http://goo.gl/S5SX7 (2013年3月29日) 読み始めました。 (2013年4月1日) この本は、読んでみてください。 日本語版でもよいので。 大変、ためになります。 (2013年4月9日) こういう本は、アタマとココロに常備しておかないと。 (2013年4月18日) ボストンマラソンの爆弾事件も重ねながら、読んでいます。 (2013年4月19日) これは、たぶん日本語版でよいので、読んでみてください。参りました。降参。 (2013年4月23日) 今世紀と次の世紀(が、あれば)に生きるすべての人に一読をすすめます。 (2013年4月25日)
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大惨事はなぜ常に“想定外”であり、不幸の予言は聞く耳を持たれないのか――という帯のフレーズに惹かれて購入。 本書でツナミは必ずしも津波を指すものではなく、災厄の総称として扱われる。故にリスボン地震に始まり、ヒロシマ、ナガサキ、アウシュビッツ、9.11そしてスマトラと原因が自然、人に依らず災厄の例として並べられる。 この本の正しい解釈とは思いませんが、印象に残ったこと2点。 ■自然災害で被害に遭うのはあくまで人工物、もし都会の人がより身軽に分散して住んでいたら被害は少かったはず、また無人島であれば被害はない、つまり完全なる自然災害はなく、多分に人災の要素がある。 ■人類は原子力を発明し、遂に自らの滅亡の手段を手に入れた。 災害直後、某知事の失言。災害を自然からの報復、神の警告として捉える神義論は不幸に直面した人間精神の普遍的形式だそうで、実はライプニッツを読んでいたのではないかという仮説。
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フランスの科学哲学者ジャン=ピエール・デュピュイが、リスボン、アウシュヴィッツ、ヒロシマ、ニューヨーク、スマトラといった地名によって指し示されるカタストロフィーと向き合い、それを今も産み出しつつある悪を見据えながら、いかに未来へ向かいうるかを探る真省察。とくに前半が思弁的に見え...
フランスの科学哲学者ジャン=ピエール・デュピュイが、リスボン、アウシュヴィッツ、ヒロシマ、ニューヨーク、スマトラといった地名によって指し示されるカタストロフィーと向き合い、それを今も産み出しつつある悪を見据えながら、いかに未来へ向かいうるかを探る真省察。とくに前半が思弁的に見えるが、科学哲学者の科学的知そのものへ向かう真摯な考察が見られる。それは、ギュンター・アンダースが寓意的な人物像として描くノアが行なう明日の死者への哀悼としての予言を出発点として、それに耳を傾けない──それはプリーモ・レーヴィが描いたように、アウシュヴィッツ=ビルケナウに到着してもなお、虐殺を信じないことに極まるだろう──という問題に、主に二つの視点から切り込んでいく。その一つは、今なお根深い開発信仰と一体となっている、人間に限界を突きつける問題をすべて科学と技術の問題に格下げしてしまう思考の批判である。日本で「安全神話」を作り出した、またそれを批判する側にも見られる技術信仰、とくに「持続可能な開発」を称揚する論理に対する著者の批判は手厳しい。もう一つは、これと通底している、そしてアイヒマンに代表される、思慮と想像力の欠如に抗することである。それによって、システム論的とも言うべき悪が一つの全体を構成しているのだ。そして、技術信仰と思慮の欠如が相まって、一方では「ツナミ」の語が代表するように、暴力の秩序に収まらない悪を自然に還元して思考停止に陥る一方、なおも科学技術の進歩にすがろうとする、矛盾した態度が蔓延するなか、人類は自分自身の終末を用意しつつある。アンダースが喝破したように、ヒロシマ以後、未来はもはや滅亡への猶予に成り果てたのだ。その現実に覚醒することをデュピュイは説く。それは、ノアの予言を真に受けて、自分を未来の犠牲者と考えることでもあるという。ただしそのような思考は、すでに起きた破局の犠牲者の哀悼とともにしかありえないはずだ。それをつうじて──今流行の「希望学」とは対照的に、と言うべきか──破局としての未来を考え抜き、それまでの猶予を狭めつつある「進歩」に抗うこと。その力を、ベンヤミンは「微かなメシアの力」と呼んだのではなかっただろうか。
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