表象の光学 の商品レビュー
著者の論文集ですが、「この本は、西欧近代における「表象」と「主体」の構造的な相関関係を、ゆるやかな歴史的なパースペクティヴのもとに論究しようとしたものである」と「あとがき」に書かれているように、ある程度まとまった内容になっています。 論文「デカルト的透視法」では、デカルトのコギ...
著者の論文集ですが、「この本は、西欧近代における「表象」と「主体」の構造的な相関関係を、ゆるやかな歴史的なパースペクティヴのもとに論究しようとしたものである」と「あとがき」に書かれているように、ある程度まとまった内容になっています。 論文「デカルト的透視法」では、デカルトのコギトがエゴであるよりもむしろ「自然の光」によって照らし出される「表象装置」として規定されていることに着目し、さらにそうした発想が透視図法的な視点へとつながっていくことが論じられています。著者の議論は興味深いものですが、こうしたテーマをあつかうのであれば、デカルトからライプニッツへの展開を視野に入れて論じるべきではなかったかとも思います。 論文「無の眼差しと光り輝く身体」は、フーコーが『言葉と物』において詳細な分析をおこなったベラスケスの「ラス・メニナス」についてあらためて考察をおこない、「絵画」という表象から「歴史」や「制度」、「知」といった「外部」へと視点の転換を敢行したフーコーがなぜかそれについて論じるとすることのない、マルガリータ姫の身体に注目し、それがいわばフーコーによる視点の回転にとって空虚な中心の役割を果たしていることを解明しています。 論文「大地論序説」では、宇宙から見た地球の写真によって「大地」から「根こぎ」にされてしまうことの不安を語るハイデガーの議論についての検討からはじめて、「大地」からの声を送り届けるリルケの「詩人」と、もはやそうした「大地」への信頼を喪失してしまったツェランの立場を対比することによって、ハイデガーとツェランの関係についての興味深い視点を提供しています。また論文「物語の光学」では、ハイデガーの『存在と時間』とブランショの『白日の狂気』が対比的に論じられています。ハイデガーは現存在のありようを、「本来性」の地平へ向けて問いかけ、「良心」の声に耳を傾けるという道を示しました。これに対してブランショは、「狂気」という地平へ向けて「物語」を語りかけており、そこに示されているいわばカフカ的な「法廷」状況が、ハイデガーにおいて論じられることのなかった問題圏を指し示しているということが論じられています。
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