知覚の正体 の商品レビュー
「科学を語るとはどういうことか」が超おもろかったので、河出ブックスに期待して読んでみた。が、これは好きじゃなかった。 刺激が同じでも、刺激の受け取り方(主観的な感覚量)が変わる事例を紹介してるってことで、「どこまでが知覚でどこからが創造か」という副題になってるんだと思います。第1...
「科学を語るとはどういうことか」が超おもろかったので、河出ブックスに期待して読んでみた。が、これは好きじゃなかった。 刺激が同じでも、刺激の受け取り方(主観的な感覚量)が変わる事例を紹介してるってことで、「どこまでが知覚でどこからが創造か」という副題になってるんだと思います。第1章、7章、8章で紹介されてる事例は面白い。 第3章〜第6章はちょっと毛色が違くて、スタートは知覚分野の問題提起なんだけどそのあと紹介されてる事例は、その問題から派生した雑談みたいな感じで物足りないし、筆者の考察が浅くてツッコミ入れたくなった。 それと日本語(文章)がいまいちで、読んでて萎えてしまった。言葉は難しくなくて平易なんだけどわかりにくかったり、同じ副詞節が一文に二回出てきたり。。 ブログだと思って読めば(さすがにちょっと極端ですが)、かなり内容充実してて良いかもしれないです。。
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視覚についての本にしては珍しく視覚の専門家の手による一冊。 宇宙開発にも携わる本物の科学者による知覚の解説が続くのだけど、それだけに「いやそれは知らなかった」「そうだったのか」という驚きの連続で読んでいてとてもたのしい。 ただし「どこまでが知覚で、どこからが創造か」という副題...
視覚についての本にしては珍しく視覚の専門家の手による一冊。 宇宙開発にも携わる本物の科学者による知覚の解説が続くのだけど、それだけに「いやそれは知らなかった」「そうだったのか」という驚きの連続で読んでいてとてもたのしい。 ただし「どこまでが知覚で、どこからが創造か」という副題がついているもののこの問いについてはあまり明確な答えはない。 ネッカーキューブの作者はネッカーではない、というのは知らなかった。 いちばんにおもしろかったのは7章の「奥行きを知覚しているという確信はどこから来るのか」 とくに「中枢で使われなかった情報のゆくえ」が抜群におもしろかった。これは「立体視は両眼で重なっている部分を用いて処理される」というのは誰もが知るところなのだけど、重なっていない部分の情報はどこへいくのか?という実験の計画の話なのだけどワクワクが止まらない。
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人間の知覚というのは非常に良く出来ていると同時に非常に適当な部分もある。 しかしその正確さと曖昧さのバランスがないと知覚情報過多になってしまう。 重力に関する知覚の話は特に興味深く面白かったです。
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知覚について今考えられていること。当たり前のような、無意識だったことに対する気づき、自分の身体がそんな風に動いていたということに対する驚き。 決して読みやすいとか、わかりやすい文章ではないが、その分読み応えのある内容でした。
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「発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目をもつことなのだ。」マルセル・プルーストの、かくも有名な名言である。この言葉に、本書の主題でもある「知覚」の本質が潜んでいる。 一般的に視覚機能と言う時、それは光を感じる感覚器でおこる出来事と、中枢で処理するプロセスの両方を...
「発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目をもつことなのだ。」マルセル・プルーストの、かくも有名な名言である。この言葉に、本書の主題でもある「知覚」の本質が潜んでいる。 一般的に視覚機能と言う時、それは光を感じる感覚器でおこる出来事と、中枢で処理するプロセスの両方をさす。上記の例に当てはめると、いくら新しい景色を感覚器で受け止めようとも、中枢の処理が追いついてこなければ、新しい視覚情報は得られないということなのである。 本書はこのように「見る」、「聴く」、「触る」、「嗅ぐ」、「味わう」といった知覚について、抹消の感覚器官と中枢の統合機能との関係に着目することにより、その複雑なメカニズムを解き明かしている。著者は日本人で、主に眼球運動の専門家。この類のテーマについて書かれた本は何冊も読んできたが、日本人によって書かれているのは珍しく、素直に嬉しい。おかげで取り上げられる事例や題材も、和をテーマにしたものがてんこ盛りである。 ◆本書の目次 1 知覚は環境抜きで成立するのか 2 重力は生物の知覚と行動を支配する 3 遠い記憶と新しい知覚 4 とぎすまされた職人の知覚 5 ブラインド・スポットと伝統芸能の奇妙な関係 6 ひと筋縄ではゆかない美醜の知覚 7 奥行きを知覚しているという確信はどこから来るのか 8 動く目で動くものを見ると 例えば、職人の代表格でもある大工の世界。年に2回、檜の角材からどれだけ薄い削り華を排出できるか競いあうコンテストがある。このコンテスト、削り華の厚さが数マイクロメートル(μm)の水準で勝敗が決するという。ここでポイントとなるのが、鉋の刃を研ぐ作業である。鉋の刃には数マイクロメートルほどの微細な欠けや乱れがあってはならない。この顕微鏡の世界を、職人は指先で触れて、刃の出具合を確認するのである。驚くべき皮膚感覚の弁別力である。このような能力は、人間であれば誰にでも備わっており、長い時間をかけた経験の集積の結果としてもたらされるそうだ。 一方で、知覚には創造を補完するという機能もある。日本の芸術として知られる茶道や華道、これらには「わび」、「さび」を第一義とする道具や所作がある。その特徴は、極限までの省略による簡素な佇まい。省略された空間は、物理的な刺激の特性としては何も情報が送られてこない。しかし、生体では状況が異なる。何もない刺激に対して、中枢は何らかの意味を持たせようとする。過去の経験などから、創作や創造が働き出す余地が生まれてくるのだ。 さらに、知覚情報がどのように美醜と結び付くのかという解説も、興味深い。一般的に左右対称なものは、美しいとされている。しかし、歌舞伎の睨み、不動明王の憤怒の形相といった左右非対称なものにも、人は美を感じることがある。一見不完全に見える配列や構成を、高次中枢が能動的に解釈するために費やされる力強いエネルギーが、心地良さをもたらすこともあるのだ。中枢とは、どこまでも気まぐれなものである。 本書を読んだ後には、きっと日本というものが、新しい知覚によって認識されるかもしれない。それはきっと、新しい目で日本を見るということでもある。
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