もしも起訴されたら99.9%有罪になる の商品レビュー
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日本の有罪率の異様な高さ…この問題には以前から興味があった。 …旧ソ連や中国よりも高いのはなぜか… 要は戦後続いて来た慣習によって、憲法の公開法廷の趣旨が 空洞化し、効率よく有罪にするシステムが作られて来たというもの。この本を読むと、冤罪は構造的であり、意外と司法の裁量、権限は狭い事が分かる。つまりすべてはあらかじめ決まった運用によって進められる。(例えば量刑は検察求刑の2割引きなど) 読者は、この本によって裁判官が、検事調書(取り調べ調書)に過度に依存する構造になっている事が分かる。つまり、裁判を決するのは密室での取り調べであるというのがメインテーマ。 昨今よく言われるように、検事調書は検察のストーリに沿うかたちで、調書が有罪を確実に呼び込むように、理路整然と矛盾無く文章化される。そして、供述者に署名指印を「納得」の上で署名させる。これで事実上、有罪になるシステムだ。仮に公開法廷のもと決しようと「実はあれは強要された」と主張しても、自白の任意性は署名指印をした以上認められないという。 さて、そもそも検察の調書は、伝聞証拠禁止の原則から法廷で証拠として出されるべきではないものだそうだ。尤も、仮に弁護士が検事調書の法廷への証拠提出に不同意表明をすると一端、証拠能力は失われる事になっている。しかし、伝聞例外があり(刑事訴訟法321条1項2号後段)一定の条件下で検事調書は法廷に持ち出される。すなわち、参考人の法廷証言が、検事調書の内容と実質的に異なった場合に、裁判所は「提示命令」を下し問題の検事調書を見る機会を得て法廷証言との内容に実質的な食い違いがあるかを判断する。さらに条件として公判期日の供述より前の検事調書を信用するにたる「特別の状況がある時」(特信性)に限って「例外的」に、検事調書は法廷で証拠として採用されるのだという。しかし、法廷での証言が検察の鋭い尋問で「しどろもどろ」になるのに対し、検事調書は理路整然としたものだから運用において、ほとんど得心性は認められてしまう。結果、この伝聞証拠禁止の原則は、以上に述べた運用において、例外が原則となりほとんど特信性が認められるので、検事調書は証拠能力を持つ。自明であるが、仮に法廷において検事調書と参考人の証言が証拠力を争う場合であっても、同じように「しどろもどろ」は理路整然には敵わないのだ…よって法廷での証言は採用されず有罪、検察求刑の80%の刑期が課される。 このように、裁判官が分厚い検事調書に過度に信用し依存しており、そもそも起訴の99.9%は有罪であるので、裁判官がよっぽど勇気を有した人間でない限りとりあえず当たり障り無く有罪とされる。そして、そのように慣習によって蓄積されたこの国の判例は有罪を能率的に作り出すシステムと保守化しているというのが、本書の立場である。改めて述べるまでもないが、近代国家の理念として無罪推定は原則であるはずだが…。 なお、日本政府の立場は検察の人手不足から、検察が事実上、有罪、無罪の判断をしている事を認めつつ、それでも三権分立はなり立つという…しかし、それは欺瞞であろう。起訴便宜主義他、明らかに行政の司法権介入があるのだ。もっとも、三権分立は民主主義とは直接の関係はないので、これでも民主主義だとは言える。しかし立憲国家とは言えまい。また、読者の知る限り無罪判決を出すと行政府から再任を受ける立場の裁判官として出世に響く事も挙げられていることを付したい。 その他、取調室の可視化を推しつつもその問題点も挙げており、少し手を広げすぎの感じは否めないが、問題提起の書として有益だ。昨今の村木事件、足利事件など検察の暴走が徐々に明らかになって来ており司法を考える良い機会になった。
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