井筒俊彦 の商品レビュー
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第12回アワヒニビブリオバトル「誰かにオススメしたい本」で紹介された本です。 出張特別編@もりのみやキューズモールエアトラック 2016.04.29
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「大抵の言語は数ヶ月で読めるようになり、英独仏語にいたっては抵抗がなく外国語ですらない」 「ある日、イブラヒムはすごい学者が来たと、井筒をモスクへと連れて行った。東京、代々木上原にある東京ジャーミイとして知られる礼拝所とイスラーム学院を兼ね た施設である。寺院に近づくにしたがって...
「大抵の言語は数ヶ月で読めるようになり、英独仏語にいたっては抵抗がなく外国語ですらない」 「ある日、イブラヒムはすごい学者が来たと、井筒をモスクへと連れて行った。東京、代々木上原にある東京ジャーミイとして知られる礼拝所とイスラーム学院を兼ね た施設である。寺院に近づくにしたがって、東洋的哀感をおびた特有の節越しでコーランを朗読する声が聞えて来た。イブラヒムは言った。「ムーサーの朗調だよ」。 「ムーサー先生」と井筒俊彦が呼ぶこの人物こそ、文字通りの天才だった。聖典を丸ごと覚えるイブラヒムの記憶力も十分驚異的だが、ムーサーの記憶力は次元が遼っていた。聖典とその周辺の書物はいうに及ばない。「神学、哲学、法学、詩学、韻律学、文法学はもちろん、ほとんど主なテクストは、全部頭に暗記してある」。原典を記憶していただけではない。注解書も複数覚えていて、かつ自分の意見がある人物だった。 初めて井筒が訪ねたとき、言伝通り、玄関ではなく庭に回って声をかけると、「よく来た、よく来た」と言いながらムーサーは押入れから出てきた。一軒はもちろん、一部屋さえ借りる資金がなく、大家もやむなく押入れの上段を貸したのだった。 ある日、井筒が体調を崩すとムーサーがアラビア菓子を持って見舞いに来た。ムーサーは書斎にあった多くの蔵書を見て、出かけるとき、この本はどうするのかと聞く。行李に入れて移動すると井筒が答えると、それではまるでカタッムリではないかと笑った。 徒手空拳、どこでも学問ができなくては真の学者ではないとムーサーは言った。 晩年の井筒はあるインタヴューで当時を振り返って、イスラームのウラマーの教授法に接した最初の経験だったと発言している。ウラマーとは大学者のこと。 ある日、井筒はアラビア語の原典をムーサーのところ へ持参する。数日するとムーサーはそれらをすっかり記憶していた。」
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井筒俊彦の思想的遍歴を、彼を取り巻くさまざまな人物との関係について立ち入った解説をおこないながら論じた評伝です。 著者の目的は、おそらく井筒の言語哲学そのものを解明することに向けられていはいないように思います。その意味では、井筒の思想についてのコンパクトな解説を求める読者には、...
井筒俊彦の思想的遍歴を、彼を取り巻くさまざまな人物との関係について立ち入った解説をおこないながら論じた評伝です。 著者の目的は、おそらく井筒の言語哲学そのものを解明することに向けられていはいないように思います。その意味では、井筒の思想についてのコンパクトな解説を求める読者には、少し期待外れに感じられるかもしれません。 著者のねらいはむしろ、宗教哲学者の諸井慶徳や漢字の研究で知られる白川静など、井筒と密接なつながりはなかったものの、何らかの意味で共鳴しあうような仕事をおこなっていた人物もとりあげることで、井筒俊彦という独創的な思想家の多面性をあざやかに描き出すことにあるのではないかと思います。アカデミシャンの仕事ではなく、批評家の立場から井筒という思想家をとらえる試みとしては、おもしろい本だと思いました。
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同じ若松英輔著の「吉満義彦 詩と天使の形而上学」を先に読了。 忘れられそうになっている過去の偉人が、 すぐれた伝記作家の手により蘇る。 素晴らしいものがどんどん過去の遺物化している中、 若松英輔氏の功績は計り知れない。
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こんなに素晴らしい評伝は久しぶりに読んだ。 人が学問をするのは実存的経験なんだ! 読後に興奮して眠れなくなりました。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
対話の達人・井筒俊彦のはじめての本格的評伝 若松英輔『井筒俊彦--叡知の哲学』慶應義塾大学出版会、2011年。 世界的イスラム学者・言語哲学者として知られながら、国内ではほとんど真正面から論じられることのなかった大碩学のひとりは、間違いなく井筒俊彦氏だろう。 ギリシャ哲学、言語学、ユングから老荘、仏教、そしてイスラームと神秘主義……。関連するキーワードをあげてもきりがないほどだ。数十カ国語に通じ、その探究の射程も深広である。それ故か、まとまな「井筒研究」はこれまでなかったし、解説しようにも解説できなかったのが知的世界の現状ではなかっただろうか。 本書はその著作と生涯を丹念に論じた待望の一冊であり、氏の思索の軌跡を生き生きと描き出している。 天才ともいうべき井筒俊彦にはどのようなイメージがあるのだろうかーー。 そびえ立つ孤高の霊峰のような姿は、どこか神秘のベールにつつまれたような感もあり、言語と綿密に対峙したその研究スタイルからは、ひととの交わりの淡い・近寄りがたい印象があるだろう。しかし本書はそうした先入見を払拭してくれる。 井筒は様々なひとびとと交わった対話の人だった。西田幾多郎、大川周明、吉満義彦、ジャック・デリダ……。本書は一人の哲学者として様々な人物と交わり言葉を交わしている。そして生きた人間だけでなく、過去の言葉や資料とも対話をしているのである。 ひととあって言葉を交わし、書物と言葉を交わし、歴史と対話をしているのだ。語ることが記すことであり、記すされた言葉を読むこと自体が語ることでもあるのだろう。 さて初めての井筒伝を著した若松氏は、いわゆる職業「学者」でも「文筆家」でもない。生業をもちビジネスに打ち込む一方で、研究・執筆にも取り組んでいるという。ユニークな経歴を持つ著者の意欲作は、本格的批評家の誕生を予見させるものである。 若松氏は2年前に『読むと書く―井筒俊彦エッセイ集』(慶應義塾大学出版会)を編んでいる。本書と併せて読むことをおすすめする。氏の思索の深化は本年3月に出版された『魂にふれる 大震災と、生きている死者』(トランスビュー)でもいかんなく発揮されている。 蛇足ながら、筆者は、学生時代に観覧した井筒俊彦展(慶應三田図書館にて手記やノートの展示)の記憶を鮮やかに思い出した。びっちりと数カ国語で記されたノートやカードにワクワクしたことが懐かしい。本書を読了後、あの日経験した昂奮がふつふつとわき上がってきた。
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