魯迅 の商品レビュー
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中学校の国語教科書で『故郷』を読まれた方も多いだろう。日本で広く親しまれている魯迅であるが、中国はもちろんのこと、東アジア各国において様々な「読み」がなされてきた。本書では、前半で豊富な資料に基づいて魯迅の生涯を語り、後半で彼の作品が東アジア共通の「モダンクラシック」として受容されてきた歴史を明らかにする。 1章から7章は、正直なところ、『故郷/阿Q正伝』(藤井省三訳、光文社古典新訳文庫)の解説を少し詳しく書き改めたバージョンという感じがする(尤も、これは寧ろ古典新訳文庫の解説が、そのような印象を抱かせるぐらい充実しているのだと評価するべきだろう)。とはいえ、多くの資料・文献を引きながら、時には著者自身の体験を交えつつ、公平に語られる魯迅の評伝は読んでいて勉強になった。魯迅が日本に留学していた頃、急速に発達しつつある「帝都」東京では、就学率の向上に伴って大幅に増加した小学校教員が官公吏や学生、都市サラリーマンとともに読書階級を形成していったこと。辛亥革命後の激動の中国で、「文学革命」を目指し、「左翼文壇の旗手」として命懸けの批判活動を展開したこと(彼が生涯に用いたペンネームの数は140にも上る)。 8章では、東アジア各国それぞれの歴史背景を投影し、反体制の激しい批判者・闘争者として魯迅が読まれてきたことが述べられる。例えば、韓国は日本と並んで非常に早くから魯迅が読まれてきた国だが、“日本の植民地支配を受けていた朝鮮知識人は、半植民地状態を脱して国民国家建設へ進もうとする中国に、特別な共感を覚えていた(p.199)”と想像されるという。 9章では、現代中国での魯迅を巡る状況が説明される。魯迅の死後、彼の功績は中国共産党統治の正当性を宣伝するために利用されてゆくこととなる。 “中国では唐代以後、新王朝が成立すると前王朝の正史を編纂してその興亡を描き、新王朝の正当性を主張する正史編纂の伝統が続いてきた。これに対し人民共和国建国後の中国共産党は、人民革命の正当性を宣言するため、編纂に長時間を要する正史に代わって共産党中心の近代文学史を編纂し、中学から大学までの国語科を通じて思想教育を行った。その際に近代文学史の中心に置かれたのが魯迅である。(p.209)” 一方で近年では、思想教育の「押し付け」によってあまりにも多くの魯迅作品を在学中に読まされることにより、中学高校を卒業する頃には多くの若者が魯迅嫌いになってしまっているという皮肉な現状があるそうだ。 実態は、日中関係が悪化するたびに浮上してくる根拠薄弱なデマに過ぎないのだが、魯迅が生前懇意にしていた日本人医師による魯迅誤診説(さらには暗殺(!)説)なるものが囁かれているとは何ともショッキングな話である。著者が言うように、これが日本の中国侵略が中国人に残した深い不信感に起因するものであるならば、馬鹿だなぁの一言で容易に片付けてはならないとも思う。 まえがき 1 私と魯迅 2 目覚めと旅立ち 紹興・南京時代 3 刺激に満ちた留学体験 東京・仙台時代 4 官僚学者から新文学者へ 北京時代 5 恋と映画とゴシップと 上海時代(1) 6 左翼文壇の旗手として 上海時代(2) 7 日本と魯迅 8 東アジアと魯迅 9 魯迅と現代中国 あとがき 略年譜 図版出典
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魯迅の生涯を語りつつ、魯迅が東アジア各国でどのように読まれ また中国においては死後どのように利用され、 現在人々に意識されているのかを描く一冊。 読みやすく分かりやすいが、村上春樹に関する記述は やや過大な印象を受けた。
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----- 竹内好はこのような“哥”と“哥児”とを区別することなく、旧訳版でも改訳版でも「閏(ルン)ちゃん」「迅(シュン)ちゃん」と訳している。これはたとえば農地改革で地主制度が消滅し、身分差が縮小した戦後日本社会に合わせて魯迅文学を土着化したものであろうか。竹内好によるこのような意訳は、原作者魯迅に対するリスペクトを欠いているのではないだろうか。 大胆な意訳と分節化した翻訳文体により、竹内好は魯迅文学を戦後日本社会に土着化させるのに成功し、中学国語教科書が魯迅を国民文学並みに扱うようになった。これは竹内訳の大きな功績といえるだろうが、そのいっぽうで、竹内訳は伝統を否定しながら現代にも深い疑念を抱いて迷走するという魯迅文学の原点を見失ってしまったのである。 --藤井省三『魯迅 --東アジアを生きる文学』岩波新書、2011年、183頁。 ----- 文豪・魯迅像についての完成された形容を一新する評伝。 その生涯を東アジアの都市遍歴(東京-北京-上海)という視点で辿ると同時に、その作品が東アジア共通の共通の「古典」として受容された経緯と現在を明らかにする。「竹内好-魯迅」超克の試みでもある。 前半の2/3が評伝で、後半の1/3が受容経緯と現在を語るものという構成になっている。第1章は「私と魯迅」! 魯迅より先に、著者自身の魯迅との出会いからその旅は始まる。魯迅が民族と自身の暗部を凝視したことは、とりもなおさず、現代に生きる私たちが自分自身を学びなおすことにほかならない。 まずは評伝部から。 通常「苦渋に満ちた留学時代」と評される東京・仙台時代。筆者は「刺激に満ちた留学体験」であることを明らかにする。漱石を愛し、世界文学へ目を開くのもこの時期である。帰国後の官僚学者から新文学者へ。そして上海時代と晩年が丁寧に纏められている。 許広平とのロマンスののち、上海にて、ハリウッド映画を楽しむ近代的都市生活者としての魯迅の姿は印象的である。魯迅はターザン映画がお気に入りであった。晩年の命がけの独裁批判は学ぶ点が多い。魯迅が守旧と近代の両面を批判したのは権威を利用・迎合する人間の精神だと分かる。 さて本書の読みどころは、第7章「日本と魯迅」、第8章「東アジアと魯迅」、第9章「魯迅と現代中国」ではないだろうか。日本の魯迅研究をリードした竹内好に対する筆者の批判は、実証に裏打ちされながらも痛烈である。竹内の歪曲は魯迅へのコンプレックスの裏返しに他ならないと本書はあばきだす。 「伝統と近代のはざまで苦しんでいた魯迅の屈折した文体を、竹内好は戦後の民主化を経て高度経済成長を歩む日本人の好みに合うように、土着化・日本化させているのではないだろうか」(180頁)。 そして「伝統を否定しながらも現代に深い疑念を抱いて迷走する」魯迅の原点を示す。 7~9章では、日本だけでなく東アジア文化圏の「モダンクラシックス」として魯迅の受容と現在を概観する。村上春樹と魯迅の関係についての言及は瞠目すべき話題であるし、魯迅作品の初の外国語訳は日本ではなくハングルであったという指摘には驚いた(2ヵ月はやい)。 村上春樹の東アジア受容や魯迅の関係から夏目漱石-魯迅-村上春樹を中心とする「東アジアにおける魯迅『阿Q』像の系譜」という国際共同研究を筆者は立ち上げたようである。また毛沢東は魯迅を聖人化して利用した。その結果、大陸では「食傷」も起こるというのも興味深い。 本書は確かに新書サイズの評伝である。しかし240頁足らずの新書の中に長年の成果と現在、そして筆者の感情までもがぎっしりつまった本である。光文社古典新訳文庫より筆者は魯迅の作品を訳している。次はそちらを手に取ってみようと思う。
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本書の後半は、中国、日本、韓国での魯迅受容について紹介されており、それがやはり貴重で、面白かった。 中国では魯迅は革命の精神を体現する作家として神格化されている。 これは個人的には既に聞いたことがあること。 「故郷」は、「こんなに人民を考えてくれた作家がいたとは」と、感動的な作品...
本書の後半は、中国、日本、韓国での魯迅受容について紹介されており、それがやはり貴重で、面白かった。 中国では魯迅は革命の精神を体現する作家として神格化されている。 これは個人的には既に聞いたことがあること。 「故郷」は、「こんなに人民を考えてくれた作家がいたとは」と、感動的な作品として読まれている、と。 本書から知ったのは、そういう中国では、特に若い女性の魯迅離れが進んでいるということ。 思想教育的な要素が敬遠されているとの由。 中国の表の顔と裏の顔を見た気分である。 現在では「個性的読み」の試みが始まっているという話も紹介されていて、今後、中国でのスタンダードな読みはどう変わっていくか、興味が惹かれる。 また、韓国も魯迅の評価が高い国とあった。本書では概略的な紹介だけだったが、このことについてはもっと詳しく知りたい。 また、個人的には魯迅暗殺説(日本人医師に暗殺されたと遺族が書いている!)にショックを受けた。
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藤井省三が、岩波から魯迅の本を出したとは知りませんでした。 フランツ・ファノンと魯迅のポートレートが貼ってあったのは、高校生の頃の私の部屋です。 どんな新たな魯迅の顔をのぞかせてくれるのか、すごく楽しみです。
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前半は魯迅の評伝。 後半は東アジアの魯迅受容や教科書にも採用された竹内好訳の問題点について、具体例を挙げつつ指摘する。 魯迅の描いた「阿Q」が、国境を越えて受け継がれているという指摘によって、魯迅の偉大さを改めて認識した。
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