ハウス・オブ・ヤマナカ の商品レビュー
歴史に埋もれ、今や知る者も少なくなった美術商「山中商会」の実像を発掘してみせた執念(読んでみるとわかるけれど、これは正しく「執念」というしかない)にまずは敬服。膨大な資料を丹念に読み込み、山中商会の軌跡を再構築する作業。その果実としての本書は、それだけで一読の価値がある。ひとつだ...
歴史に埋もれ、今や知る者も少なくなった美術商「山中商会」の実像を発掘してみせた執念(読んでみるとわかるけれど、これは正しく「執念」というしかない)にまずは敬服。膨大な資料を丹念に読み込み、山中商会の軌跡を再構築する作業。その果実としての本書は、それだけで一読の価値がある。ひとつだけ難を言えば、調べ上げた資料が膨大であるが故に、本来なら切り捨てても構わない部分まで書き込んでしまっている憾みはある。ま、著者の気持ちは分かるんだけど、もっと思い切って捨てるべきを捨てれば、もっと読みやすく面白くなったんじゃないかな。蛇足を連ねれば、マンハッタンに支店を構えた山中商会の取引記録が米公文書館に残されていたという事実がまことに興味深い。公文書保存の取り組みに関して、彼我の差は大きいのだなあと改めて実感。日本もどげんかせんと。
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明治から第二次大戦前まで、美術商としてその名を轟かせた山中商会という会社があった。ニューヨーク・ボストン・シカゴに拠点を置き、東洋の美術品の流通に務め、時代の流れに飲まれていった1つの会社の足跡を追うノンフィクション。 東洋美術が欧米のコレクターの手に渡るには、その蔭に仲介する...
明治から第二次大戦前まで、美術商としてその名を轟かせた山中商会という会社があった。ニューヨーク・ボストン・シカゴに拠点を置き、東洋の美術品の流通に務め、時代の流れに飲まれていった1つの会社の足跡を追うノンフィクション。 東洋美術が欧米のコレクターの手に渡るには、その蔭に仲介する美術商が必要だった。山中商会はその役割を果たした会社で、隆盛期はニューヨークの繁華街に立派な店を構え、高い知名度を誇っていた。フリーアやロックフェラーを初めとする多くの顧客に、数々の名品を売り、美術品の国際流通に大きな役割を果たした。そうした品々は日本のものだけでなく、中国から入手したものも多かったという。 順調に商取引をし、顧客との関係もよかった会社が跡形もなくなり、歴史の中で忘れ去られた存在となったのは、第二次大戦で米国政府に接収されてしまったためである。 筆者は、公文書や手紙、電報などを丁寧に読み取り、「ヤマナカ」の歴史を丹念に綴っていく。 保存状態によっては、読めない箇所もあるような文書を辛抱強く読み取っていく筆者の姿勢は、誠実で好感が持てる。わかったところ、わからないところ、筆者が憶測したところ、そしてそう憶測した理由が、整理された形で提示されている。 抑えた筆致であるが、こうした形でまとめるのは、対象への愛と熱意がなければ出来ないことだろう。その姿勢は、東洋美術を欧米に売るという形が確立されたいなかった時代に、アメリカに渡り、手探りで商売を拡大していった山中定次郎らの姿に重なる。彼らもまた、美術品への愛と熱意を持った人々だったのだろう。 個人的に専門外の分野なので評価は控えるが、1つの会社が興り、そして終焉を迎えたドラマを興味深く読ませてもらった。 *筆者の名前はどこかで見たな、と思ったら、『フェルメール全点踏破の旅』(集英社新書:現存するフェルメールの全作品を見て回った記録)の人だった。熱意の人なんである。
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明治時代から第二次世界大戦まで、東洋美術商として世界的に有名であった山中商会。メトロポリタン美術館、ボストン美術館、フリーア美術館、大英博物館など、大規模な東アジア美術コレクションを持っている美術館へは、相当数の作品を供給していたという。二〇世紀初頭にあっという間にビジネスを拡大...
明治時代から第二次世界大戦まで、東洋美術商として世界的に有名であった山中商会。メトロポリタン美術館、ボストン美術館、フリーア美術館、大英博物館など、大規模な東アジア美術コレクションを持っている美術館へは、相当数の作品を供給していたという。二〇世紀初頭にあっという間にビジネスを拡大した山中商会は、ニューヨーク、ボストン、シカゴからロンドンまで活動範囲を広げ、英国王室からも用命を受けていたほどだ。本書は、今では知るものの少なくなった、その興亡を描いた一冊である。 ◆本書の目次 序章 琳派屏風の謎 第一部 古美術商、大阪から世界へ 第一章 「世界の山中」はなぜ消えたか 第二章 アメリカの美術ブームと日本美術品 第三章 ニューヨーク進出 第四章 ニューヨークからボストンへ 第二部 「世界の山中」の繁栄 第五章 ロンドン支店開設へ 第六章 フリーアと美術商たち 第七章 日本美術から中国美術へ 第八章 ロックフェラー家と五番街進出 第九章 華やかな二〇年代、そして世界恐慌へ 第十章 戦争直前の文化外交と定次郎の死 第三部 山中商会の「解体」 第十一章 関税法違反捜査とロンドン支店の閉鎖 第十二章 日米開戦直前の決定 第十三章 開戦、財務省ライセンス下の営業 第十四章 敵国資産管理人局による清算作業 第十五章 閉店と最後の競売 第十六章 第二次世界大戦後の山中商会 終章 如来座像頭部 江戸末期以来、日本国内でも活発に古美術商として活躍していた山中商会が、日本国内の美術ビジネスに与えた最大の功績は、”展観”という販売スタイルを持ち込んだことにあるという。それまでは顧客と一対一で販売するのが通常だったのだが、欧米の画廊に倣い、会場で品物を展示してから販売するという方式に変更したのである。今でいうフリーミアムモデルのようなビジネスモデルが、百年以上も前に行われていたことになる。 ニューヨークに最初の店を出したのが、一九八四(明治二七)年。明治日本のナショナリズムが高揚し、日本としても熱心に対外貿易を促進していた時代である。その当時、日本の美術工芸品のレベルの高さは群を抜いていたという。遠近感を無視し、植物や動物の描き方も誇張され、遊び心やデザイン感覚に富んでいたのである。そんな中、山中商会は、美術工芸品に限らず、盆栽、狆、金魚から”だんじり”まで幅広いラインナップを取り揃え、日本文化を知らしめる役割を果たした。今風に言うとキュレーションということになるだろうか。 今でも海外のソーシャルメディア事情などを、日本国内に伝えるためのキュレーターは見かけるが、日本国内の情報を世界に発信しようとしているキュレーターには、あまりお目にかかれない。また特筆すべきは、山中商会のキュレーションが、美術に関して目の肥えた正真正銘のキュレーター(美術学芸員)達に対して行われていたということだ。つまり彼らはキュレーターから情報をもらうのではなく、情報を与えることでビジネスを行っていたということなのだ。 彼らに取っての最初の転機は、明治後半に訪れる。日本の美術品が品薄になり、値段も高騰してきたのだ。そこに国内が政情不安に陥った中国より、安価な美術品が大量に出回って来た。まるで現在の世界情勢を彷彿とさせる出来事だ。そこで、山中商事は仕入れの中心を一気に中国へと舵を切る。多少非合法なこともあったようではあるが、大量の買い付けを行い、アメリカでの中国美術品ブームも牽引する美術商へとのし上がったのである。ここでの成功のポイントは、文脈形成ということに尽きる。自らが主催する講演会で、中国美術と日本美術を、ギリシャ美術とローマ美術のように相互に入り組んだ「同じひとつの芸術的活動」として取り扱う視点を提示したのである。 本書の副題には、「東洋の至宝を欧米に売った美術商」と書かれている。おそらく当時の人が、山中商会の商いを国内からの「流出」という否定的なニュアンスで捉える傾向が強かったことも受けてのことだと思う。これは、美術というものを目的と捉えるのか、手段と捉えるのかによって、賛否の大きく分かれるところでもあるだろう。 山中商会の商いが、あくまでも「手段としての美術」であったことは否めない。しかし、欧米に追い付き、追い越せと叫びながら、海外を模倣していた時代に、欧米を相対化することで文脈を形成し、日本、そしてアジアという文化を広く知らしめたということは紛れもない事実である。その商魂には、今でも学ぶべき点が多いのではないだろうか。
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