軽蔑 の商品レビュー
突き詰める所までいった路地シリーズから一転、当時の中上の筆力による最期の長編。 中上の良いとこも悪いとこも全て入った、中上にしか描けない男と女の物語。 前提として、正直チンピラにもなり切れていない馬鹿男と見る目の無い主人公に感情移入する読者は居ない筈。 ただ、彼らの世界の中で真剣...
突き詰める所までいった路地シリーズから一転、当時の中上の筆力による最期の長編。 中上の良いとこも悪いとこも全て入った、中上にしか描けない男と女の物語。 前提として、正直チンピラにもなり切れていない馬鹿男と見る目の無い主人公に感情移入する読者は居ない筈。 ただ、彼らの世界の中で真剣に人を愛している彼らは美しい。ラストも含め、読んで良かったと思える綺麗な作品だった。
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中上の作品を読み進んでいると、棟方志功の姿が思い浮かぶ。古い映像で見た棟方の姿は、版木に一心不乱に向き合い、同じ箇所を何回も何回も、執拗に見えるくらい彫りを加え続けていた。それ自体は人を殺傷すらできる彫刻刀を、まるで本来、人や自分自身の身体を傷つけるために振り上げたものを、そうす...
中上の作品を読み進んでいると、棟方志功の姿が思い浮かぶ。古い映像で見た棟方の姿は、版木に一心不乱に向き合い、同じ箇所を何回も何回も、執拗に見えるくらい彫りを加え続けていた。それ自体は人を殺傷すらできる彫刻刀を、まるで本来、人や自分自身の身体を傷つけるために振り上げたものを、そうする代わりに版木に向かって線を刻み、乳房や女陰など自分の身体に存在しない器官はことさらに強く太く鋭角的に線をくわえ、そうすることで私たちの観念や想像をはるかに越える像を立ち現れさせる。 「軽蔑」では、“相思相愛の男と女、五分と五分”といった核となる言葉が、他の中上作品同様、技法的に何回も何回も繰り返される。その言葉が出るたび、私たちの胸中に強く太く描線が刻まれ、単なる男と女の物語として読み始めた読者の心に、読み進めるうちに、棟方の版画作品のように、聖なるもの俗なるものそのほかのあらゆるものがすべてその強く太い描線によって浮かび出されたかのように、読者はありふれた男と女の真知子とカズさんに手を合わせ、幸せを祈り不幸を悼み、2人の物語に自分の人生観を濃く重ねることができる。 しかし、私たちのように平凡に日々を安穏と生きる者は、この本を閉じれば、強く太く描かれた物語の登場人物の人生とは明確に区切られた日常空間に引き戻される。棟方作品に魅かれる者が、仏教界や宗教界に精神ごとどっぷりつかるとは限らないのと同じ。私たちは、人生について深く悩み、傷つき、死を考える前に、棟方が自分に彫刻刀を向ける代わりに版木に自分の魂を刻み付けたのと同様に、この作品を読み進めることで、自分の中の爆発しそうな魂を、本を閉じるのと同時に封じ込めることができるということになるのかなどと考えたりもする。 その一方で中上は、読者が心の中にもつ獣のように暴れる魂を、その一身で肩代わりしたかのように、この作品を書き終えた直後の1992年8月に逝ってしまった。 (2011/6/13)
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重い恋愛小説で、正直入り込めず。。。ヤクザっぽかったり、トップレスバーの踊り子なのに、お互いに対しては純粋すぎて、不器用すぎて、痛々しい感じ。
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真千子は言う「男と女は五分と五分」と。 夜の新宿、身一つで生きてきた真千子。 身一つでカズの故郷へ。 夜の新宿、ある意味拳一つで生きるカズ。 真千子を伴い故郷へ。 都市生活者と僅かな半径で生きる者の意識差。 真千子の言葉は通用しなかった。 戸惑、好奇、しがらみ、因習、嫉妬、・・...
真千子は言う「男と女は五分と五分」と。 夜の新宿、身一つで生きてきた真千子。 身一つでカズの故郷へ。 夜の新宿、ある意味拳一つで生きるカズ。 真千子を伴い故郷へ。 都市生活者と僅かな半径で生きる者の意識差。 真千子の言葉は通用しなかった。 戸惑、好奇、しがらみ、因習、嫉妬、・・・・・コンプレックスが生む軽蔑。 不寛容、絶望、覚悟・・・・・・"空気"に追いつめられる二人。 中上健次最後の作品は割とシンプルな純愛作品。 幼稚な二人の幼稚な純愛の果ては実に不様で無残。 けれども美しい。 そして凄く切ない。 読後感はホントに居た堪れない切なさだった。
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手を伸ばしてさみしいに触る、降る星のように愛されながら遠くで腕を広げて待っているかなしいやみじめさに触れる、触らずに生きていかれないほどに人間が弱い生き物だから、それがどんな感触であっても自分以外の体温があったから。共有できないことはわかっている。共有できないことにうちひしがれれ...
手を伸ばしてさみしいに触る、降る星のように愛されながら遠くで腕を広げて待っているかなしいやみじめさに触れる、触らずに生きていかれないほどに人間が弱い生き物だから、それがどんな感触であっても自分以外の体温があったから。共有できないことはわかっている。共有できないことにうちひしがれれば、自分以外の誰かの影にさわれる、ひとりじゃない、そうまじないのようにとなえる。 中上健二の書く女性は何処か男性の目やにおいを感じる。中上がどこまでも男性だったからなのだろうか。
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近代の都市生活者としての真知子が、前近代的な田舎=共同体に縛られるカズさんを愛するも、ふたりは都会から田舎へと場所を移すとどうしても上手くいくことが出来ない。 それはカズさんの田舎である共同体=前近代が、真知子という都会者から彼を奪おうとするためであり、しかしカズさんは自らがそ...
近代の都市生活者としての真知子が、前近代的な田舎=共同体に縛られるカズさんを愛するも、ふたりは都会から田舎へと場所を移すとどうしても上手くいくことが出来ない。 それはカズさんの田舎である共同体=前近代が、真知子という都会者から彼を奪おうとするためであり、しかしカズさんは自らがそのようにして故郷が真知子=都会=近代から田舎=前近代へと引き戻そうとされていることに気がつかない。 それは、カズさんがあまりにも共同体に根付いてしまっているからであり、一方の真知子は過去がほとんど語られず、そのような共同体をそもそも持っていない。 かつてあったものとしての共同体=前近代に対する追憶や、自らがそれを持ち得たかもしれないという可能性への執着を、真知子は持っていない。 真知子はもとより都市生活者=近代として存在し、つまり共同体=前近代がなくなったところから始まっているのであって、追憶や執着は共同体=前近代に属していた者しか抱きえない。 カズさんのようにどっぷり浸かりきってしまえば、追憶や執着を抱けるほど客観的な距離をもつこともできない。 それゆえ、カズさんは真知子の感情にあまりにも鈍感である。 また、真知子もはじめより共同体=前近代から完全に抜け出てしまっているがゆえに、追憶や執着という形で近付くことすらままならず、ただ「軽蔑」することしかできない。 真知子の「軽蔑」は、つねに共同体=前近代から遠退くために、距離を生むためにはたらいてしまう。 このようにして、都市=近代では交じり合った真知子とカズさんの視線は、田舎=前近代へと戻ることによって擦れ違い続けざるをえなくなってしまうのである。
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中上健次の晩年の作品。お金持ちのボンボンの男と踊り子の女の逃避行、かと思いきや男の実家の田舎町へ移り住む女。そこで、家の問題やヤクザが出てきたりの流れで、とっても狭い世界に男と女の熱情と悲恋が描かれる。中上健次の描く世界観を、積極的に取り込もうと意気込んで読まない限りはなにか退屈...
中上健次の晩年の作品。お金持ちのボンボンの男と踊り子の女の逃避行、かと思いきや男の実家の田舎町へ移り住む女。そこで、家の問題やヤクザが出てきたりの流れで、とっても狭い世界に男と女の熱情と悲恋が描かれる。中上健次の描く世界観を、積極的に取り込もうと意気込んで読まない限りはなにか退屈な印象を受ける。とにかく、同じような時間軸と思考のリフレインが時に苦痛であったりもして。描写は結構独特で緻密なものがあった。もっと前期の他の作品を読んでみたいと思う。
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うーん、何がきっかけでこの本を買ったか覚えてないけど、いまいちだった。 まちちゃんとカズさんの不器用な、周りに振り回される感じの恋だけど、何かストーリーがあまり面白いと思えなかった。 読みにくくはないので、☆3つかな。
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中上健次の最後の長編、らしい。長編は始めて読んだけど、彼の小説の舞台はずっと紀州とか、地方を舞台にしたものが多いイメージだった。 今回も地方=田舎という舞台だしビルドゥングロマンスは解説にもある通り健在なのだろうけど、彼の小説のイメージと違った。丁度変革期だったんだと思う。変革が...
中上健次の最後の長編、らしい。長編は始めて読んだけど、彼の小説の舞台はずっと紀州とか、地方を舞台にしたものが多いイメージだった。 今回も地方=田舎という舞台だしビルドゥングロマンスは解説にもある通り健在なのだろうけど、彼の小説のイメージと違った。丁度変革期だったんだと思う。変革がきちんと終われば、きっと今まで通りの力強い文体にポピュラリティが加わって、もっと凄い小説が書けたような気がする。 この後を書く前に亡くなったのが惜しい。
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田舎と都会の格差については辛い気持ちになる場面は多々あるものの、男性のダメっぷりとか全く感情移入できず。 そんなかんだで最後までイマイチ感ただよい、『えっ?』という展開ばかりで余り入り込めなかった。。 杏ちゃんと高良くんの鬼気迫る演技は素敵。
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