人が人を裁くということ の商品レビュー
人が人を裁くということから社会を見つめる。神が死んだ近代、正義が人の手で作られるから「正しい」根拠が真実ではなくなる中で、犯罪、裁判について問いかける。 世間はこうだから、みんなこう思っているからっていうのは、結局、思考停止の産物。 安易に答えは出ない。方式がないのだから。 答え...
人が人を裁くということから社会を見つめる。神が死んだ近代、正義が人の手で作られるから「正しい」根拠が真実ではなくなる中で、犯罪、裁判について問いかける。 世間はこうだから、みんなこう思っているからっていうのは、結局、思考停止の産物。 安易に答えは出ない。方式がないのだから。 答えもないかもしれない、そんなことを感じた。
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各国の裁判制度や刑事訴訟プロセスが抱える問題のみならず、「真実」や「責任」とは何かという点について、哲学的な視点から問いを投げかけている。 過去の魔女狩りや動物裁判と、現在の司法制度に、構造的一致があるというのは、法学者ではないからこそ書ける面白い視点だなと感じた。
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裁判の制度や司法に津であまり知らなかったけれど、制度の成り立ちの国際比較や、社会心理学の既存研究、社会構築主義的な考え方を通して、現在ある司法制度の課題について考える視点を得られる。 裁判員制度、冤罪、有罪率、拘留、そして自由意志と責任、社会秩序といった事柄についての知見を共有し、私たちの社会の在り方について問いを投げかけている。 参考になった。
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とても面白かったです!! 印象に残った点の羅列のようになってしまいますが、まず第1部。 ○裁判への市民参加について、「職業裁判官と裁判員のどちらが的確に判断できるのか」とかいう問題を超えて、「正しい判断」「合理的判断」とはそもそも何をいうのか、という角度から問題提起し、「裁判官...
とても面白かったです!! 印象に残った点の羅列のようになってしまいますが、まず第1部。 ○裁判への市民参加について、「職業裁判官と裁判員のどちらが的確に判断できるのか」とかいう問題を超えて、「正しい判断」「合理的判断」とはそもそも何をいうのか、という角度から問題提起し、「裁判官と裁判員のどちらにより正しい判断ができるか」という問いには、原理的に答えが存在せず、事実自体は誰にもわからないから、もっとも事実に近いと「定義」されるのが、裁判所の判決である、とします。 「合理的判断」についても、どの状況に置かれるかで人間の判断は大きく変わり(裁判員の氏名が公表されるか匿名に守られるかによっても意見は左右される。人間は真空状態では判断しない。どの状況も一定の方向にバイアスがかかった空間である。)、どの状況の判断を合理的と呼ぶのか。中立な状態は存在しない。」とします。 腑に落ちる話だと思いました。 ○検討の材料として、複数の研究を引用しつつ、 ・裁判官のほうが陪審員よりも有罪と判断する傾向があり、また陪審員を既に経験した者は、初めて経験するものよりも有罪、特に死刑判決を支持しやすい傾向が見られること ・陪審員の数につき、少数派層が一人か、二人かで割合が同じであっても置かれる心理状況は全く異なること ・全員一致と多数決の違いにつき、データから、有罪無罪の意見が混在する場合に、無罪優勢の状態が評議を通して有罪に至る可能性は低いが、逆に、有罪優勢が覆されて最終的に無罪判決が出る可能性は高いこと を明らかにしており、これらも「なるほど」と。 ○そして、他国の裁判制度とその歴史的背景を連関させて紐解き、「司法への市民参加と民主主義には深いかかわりがある。裁判所は犯罪者を罰するための単なる役所ではなく、裁判は、時の権力争いや階級闘争の結果に左右される、極めて政治的な行為だ」と言います。 特にフランスと英米の市民参加制度につき、それぞれの歴史的背景などから「人民の下す判断が真実」と定義するフランスと、裁判を「多様な価値観を持つ市民の利害調整の場」と捉える英米と捉えて対比し、控訴の可否・技術的な理由にとどまらない判決理由の明示禁止についてもこれに沿ってその意味合いを解釈します。(フランスでは、人民の決定は定義からして正しいのだから、その判断を理由によって正当化する必要がないし、誰の同意も不要。対して、理由を明示することを求めることで、検察の主張を斥けるための説明を提示する労力が大きいために、有罪判決のバイアスが無意識に働くという点も指摘。) このほか、裁判官説示の問題点等にも検討材料を呈示。 裁判制度に関し、研究の蓄積等に基づいた新たな見方を提供してくれました。 「第2部 秩序維持装置の解剖学」では、 ・訓練を施しても、嘘を見抜く能力は向上しない(警察官と学生とで、誤る率はほとんど変わらない) ・目撃証言の確信度と信ぴょう性は比例しない ことを研究結果から明らかにしたり、 アメリカの取調べの教科書の記述を取り上げたりし(否認するたびに言葉を遮ったり怒鳴ったり、言いたいことを言えないことで心理的緊張を続けて合理的に思考する能力を奪うとか…なんかわかる気がした)、 冤罪が発生する構造的問題を明らかにします。 「第3部 原罪としての裁き」では、さらに「なぜ処罰するのか」という違う観点からの検討。 その中で出てくる観点が「悪は必要」「規律を外部に擬装することで内在的な問いを遮断する」というもの。 前者は、悪の存在しない社会とは全ての構成員が同じ価値観に染まり、同じ行動をとる。変化しえず停滞し、歴史を持たない社会であって、既存規範からの逸脱として「犯罪」と「創造」は多様性の同義語であって一枚の硬貨の裏表のようなものという議論です。 後者は、社会秩序は自己の内部に根拠を持ちえず、虚構に支えられなければ根拠は成立しないが、同時に、社会秩序が様々な虚構のおかげで機能しているという事実そのものが人間の意識に対して隠蔽されなければ、社会秩序が正当なものとして我々の前に現れない、という議論で、善悪の基準に普遍的価値は存在しないからこそ、確固たる信頼を与えるために必要なのだと論じます。 「逮捕されて罰を受けるのは誰なのか。犯人という概念がすでに問題を孕んでいる。犯人とは、社会秩序維持のために必要なスケープゴートだ。したがって、人を裁くということは、誰かを犠牲にすることを意味する。実は裁き自体が犯罪行為なのだ。しかし、それは人間の原罪であり、『裁く』=『スケープ・ゴートとして犠牲者を出す』という社会制度は絶対になくせない。」
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裁判とは何か、突き詰めて考えた本。 理性的に分析されていて、面白い。 人を裁くということは、誰かを犠牲にすることを意味していて、実はそれ自体が犯罪行為だという指摘にはドキッとさせられるけれど、それぐらいの重みを実感しないといけないと思った。
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人が人を裁くということの意味は何か? これは裁判について書かれた本だけれど、例えば我が国の裁判制度の特徴や問題点を指摘し、そのあるべき姿や改善策を提示するといった類の本ではありません。著者はフランスの大学で教鞭をとる社会心理学者です。「裁判」は単に材料に過ぎず、著者の関心はあくまで「人間社会の本質」です。とても考えさせられる本です。 第Ⅰ部で、「裁判員裁判では法律の専門家でもない市民が正しい判断を出来るのだろうか」などといった我々の心配に対して、著者は全く違った角度から異議を唱えます。そもそも神ならぬ人が人を裁くという行為の中で、真実に基づく正しい判断などありえるのかというのです。そして、誰に最も正しい判断ができるかは問題ではなく、真実など誰にも判らないのだから誰の判断を正しいと決めるかが問題なのだ、と指摘します。そもそも欧米で始まった陪審員制度は、公正で透明性のある裁判を行うためのものではなく、主権者たる市民に人を裁く権利を取り戻すためのものだったようです。 また、英米では真相解明の場というよりもむしろ、問題解決の場として裁判を捉えているようです。だから司法取引があり得るのだそうです。さらに、英米仏の裁判では判決理由が示されない、裁判長が判決理由を述べる日本のルールは検察の主張に沿った有罪判決へのバイアスの原因になっている、と著者はいいます。 第Ⅱ部では誤審の生じる仕組みや、自白や目撃証言の信頼性について触れます。誤審の生じる仕組みを知れば、冤罪は防ぎようのないものだということが分かります。そして冤罪を防ごうとすればするほど、真犯人が野放しになる可能性が高まるのです。このトレードオフの関係の中で、どこに妥協点を見いだすかというのが司法制度の実態のようです。 自白や目撃証言は全くあてになりません。痴漢に遭った女性は犯人の顔を見ていない場合が多いにもかかわらず、近くにいた自分が嫌いなタイプの男性とたまたま眼があうだけで、その人を犯人と思い込むのだそうです。そして、裁判官は法律の解釈については専門家であるけれども、事実認定に関しては素人だというのです。こうして、あてにならない自白や目撃証言を中心に「事実」が形成され、被疑者は確実に犯人にされていく...... 第Ⅲ部で著者は、人が人を罰する前提となっている「人間は自由意志に基づく主体的な存在であるが故に自らの行為に対して責任を有する」という考えに疑問を差し挟みます。人間は常に他者や社会環境から影響を受け続けています。ですから、「自由意志に基づく主体的存在たる人間」とは懲罰制度を可能にするために捏造された社会的虚構に過ぎないというのです。そして、そうであれば犯罪者を処罰することは、生まれついての身体障害者に対して自業自得だと突き放すのと同じくらい残酷なものだと著者はいいます。 フランスの社会学者ポール・フォーコネが述べた「犯罪とは共同体への侮辱であり反逆だ。社会的秩序が破られると、社会の感情的反応が現れる。したがって、人々の怒りや悲しみを鎮め、社会秩序を回復するために、犯罪を消し去らねばならない。しかし犯罪はすでに起きてしまったので、その犯罪自体を無に帰すことはできない。そこで、犯罪を象徴する対象が選ばれ、このシンボルが破壊される儀式を通して、共同体の秩序が回復される。このシンボルが犯人=責任者の正体だ」という解釈を、著者は支持しているようです。 さて、ことは裁判だけに限りません。正解のない世の中に我々は生きています。世論であれ、イデオロギーであれ、人々の心は自由意志からほど遠いようです。政治であれ、戦争であれ、人のあらゆる営みに、唯一の真理や正義など求めようがないでしょう。著者が裁判について示したのと同じ原理に基づき人間社会が動いているということを理解できれば、最後に表明される全体主義に対する著者の警告は腑に落ちます。 著者はかなり直感的に論を進めていますが、その直感は的を射ていると思います。物事を見通す眼の鋭さに脱帽です。全篇を通じて、人間存在の根源に触れるような箴言に溢れています。
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死刑制度の根本的な問題は、悪人を死刑によって殺すことが人道的かどうかということよりも、冤罪で死刑判決が下されるのを完全に防ぐことはできないということ。「あなたの愛する人が殺されたとしても、犯人の死刑に反対するのか?」と問う死刑賛成論者には、「あなたの愛する人が冤罪で死刑になったと...
死刑制度の根本的な問題は、悪人を死刑によって殺すことが人道的かどうかということよりも、冤罪で死刑判決が下されるのを完全に防ぐことはできないということ。「あなたの愛する人が殺されたとしても、犯人の死刑に反対するのか?」と問う死刑賛成論者には、「あなたの愛する人が冤罪で死刑になったとしても、死刑制度に賛成するのか?」と問い返さなければならない。
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「人が罰せられるのは、自由な意思決定に責任があるからではなく、社会秩序維持のためのスケープゴートとして必要だからである。」 著者は、裁判というものの「常識」を根底から問い直す。 単に司法制度論や刑罰論にとどまらず、社会心理学、哲学など、より根源的なところにまで及ぶ問いかけがなさ...
「人が罰せられるのは、自由な意思決定に責任があるからではなく、社会秩序維持のためのスケープゴートとして必要だからである。」 著者は、裁判というものの「常識」を根底から問い直す。 単に司法制度論や刑罰論にとどまらず、社会心理学、哲学など、より根源的なところにまで及ぶ問いかけがなされる。 「どんな秩序であっても、反対する人間が常に社会に存在しなければならない。正しい世界とは全体主義に他ならないからだ。」 非常に多くの示唆に富む、何度も読み返す価値のある本。 第2部で引かれている刑事司法関係の資料が若干古いのが惜しい。
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法とは何か。裁判とは何か。 それを考えさせられる良書である。 職業裁判官にしても、裁判員にしても、 人が人を裁くという構造は変わらない。 では、職業裁判官が裁くことと、市民が裁くことの意味はどのように違うのだろうか。 人が人を“正しく裁く”ということはできるのだろうか。 ...
法とは何か。裁判とは何か。 それを考えさせられる良書である。 職業裁判官にしても、裁判員にしても、 人が人を裁くという構造は変わらない。 では、職業裁判官が裁くことと、市民が裁くことの意味はどのように違うのだろうか。 人が人を“正しく裁く”ということはできるのだろうか。 裁くという行為の裏側にあることを、 丁寧に掘り下げていく。 法体系も裁判の様式も国によって異なり、 裁判の意味さえも国によって異なるという。 真実を究明する場か、断罪する場か。 更生を求める場か、被疑者の恨みをはらす場か。 誰がさばこうが、冤罪のリスクは少なからず残る。 また冤罪を極力避けようとすれば、犯罪者をそのまま野に放つリスクが高くなる。 このトレードオフの構造の中で、 裁判は行われる。 人が判断することなので、完璧なものなどあり得はしないし、 簡単に、どの制度がよいとか論じられるものではない。 しかし、人が人を裁くというその行為がどんな意味をもっているのかは、 各自が自覚しておくことが必要なのではないかと思わされる。 裁判員に選ばれて、裁判に参加することは、 国民が勝ち取った権利なのか、それとも義務なのか。 いくつもの問いが浮かんでくる。 “なぜ市民が裁くのか。職業裁判官の日常感覚は一般人とずれているから素人に任せる方が良いというような実務上の話ではない。犯罪を裁く主体は誰か、正義を判断する権利は誰にあるのか。これが裁判の根本問題だ。誰に最も正しい判決ができるかと問うのではない。論理が逆だ。誰の判断を正しいと決めるかと問うのだ。人民の下す判断を真実の定義とする、これがフランス革命の打ち立てた理念であり、神の権威を否定した近代が必然的に行き着いた原理である。”
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前半の各国の陪審員制度の解説は、各国民の考え方が判って面白かった死刑制度の部分は、過去の歴史部分が興味深かった。アメリカとフランスの法概念の違いって、大きいんだと実感。
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