私のゲーテ の商品レビュー
小塩節『私のゲーテ』は、ゲーテの評伝ではない。文字通りの私=著者がゲーテに寄せた思い入れたっぷりのエッセイ集だ。そして、ゲーテに愛着のある人が、一人称を前面に出して語っているところに、この本の評伝を超える価値がある。ゲーテも老いて情熱を失わない人だったというが、この著者も60歳の...
小塩節『私のゲーテ』は、ゲーテの評伝ではない。文字通りの私=著者がゲーテに寄せた思い入れたっぷりのエッセイ集だ。そして、ゲーテに愛着のある人が、一人称を前面に出して語っているところに、この本の評伝を超える価値がある。ゲーテも老いて情熱を失わない人だったというが、この著者も60歳の時にこの本の初版を出したにしては、とても若い文体だ。みずみずしい言葉で、ゲーテの魅力を語っている。 なかでも印象深いのは、少年時代からゲーテに魅了されていたという筆者が、彼の生家を訪ねる「ワイマル」という章だ。そこで彼は、生前のゲーテの石膏でとった右手を見る。 「肉太の節くれだった、むしろ無骨な労働者の手。働く人の太い手だ。この手が、かくも多くの創造、創作をなしとげたのであったか。これは繊細な詩人というより、彫刻家の手だ。そうだ、ロダンの手のようだ、私はそう思った」 ここで筆者が感じた「無骨な労働者の手」「彫刻家の手」という言葉が非常に印象に残った。というのも、僕はまだほとんど読んだことのないゲーテに対して、二つの異なる先入観を持っていたからだ。 一つは、森鴎外らが翻訳した「ミニヨンの歌」。ゲーテの『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』におさめられている。異国情緒を誘う10・10調の翻訳の調べとともに、伸びやかな抒情がとても美しい詩。 レモンの木は花さきくらき林の中に こがね色したる柑子(こうじ)は枝もたわゝにみのり 青く晴れし空よりしづやかに風吹き ミルテの木はしづかにラウレルの木は高く くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ 君と共にゆかまし もうひとつのイメージが、彼の代表作『ファウスト』。悪魔に魂を売った人間の運命を描いた、ゲーテのライフワークと言われる作品だ。僕はまだ読んでいない。 これまで、僕の中で「ミニヨンの歌」のイメージと『ファウスト』があまり結びついていなかったのだが、「詩人というよりは彫刻家・労働者の手」という著者の言葉の中に、その二つを結びつけるヒントがかくれている気がした。彼は、思い切り朗らかな人間賛歌の詩も、甘やかな愛の詩も書いたが、いわゆる「繊細な抒情詩人」ではないのだろう。人間世界の内奥をじっと見つめ、彫刻家のように黙々と作品を作り続けた人なのかもしれない。彼は、「芸術家よ、創れ、しゃべるな」との言葉も残しているという。 もう一度繰り返すが、この本はゲーテの評伝ではない。ここにあるのは、あくまで一個人の「私のゲーテ」である。でも、この本を最初の一冊としてゲーテを読むことは、けっこう幸福なゲーテ体験をもたらすのではないか。一冊を読み終えて、僕はなんとなくそう予感している。
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