世界リスク社会論 の商品レビュー
講演記録がベースとなっているからであろうか、正確な意味がよくわからない言葉がいきなり出てきたり、論理を追うことができなかったりして読みにくい。
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「困窮は階級的であるが、スモッグは民主的である。」 すべての人間がアメリカ人になれば、アメリカ人は世界で平和に暮らせる。 グリーンピースは無力を演じ、注目を集める。
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本書は社会学の初学者にとって難しいと感じた。はじめに訳者解説にて、全体をわかりやすく要約されているため、そこから読み始めると理解し易いかもしれない。社会学における理論系の本を初めて体験することができた。
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ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック による社会リスク論。 著者によると、世界リスク社会とは、 本来、予見可能且つ制御可能なリスク が、従来の国民国家の枠を超えて世界 規模で広がり、グローバルなリスクと なってしまうことであり、具体的には ①環境破壊、②金融危機、③テロの 3つの...
ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック による社会リスク論。 著者によると、世界リスク社会とは、 本来、予見可能且つ制御可能なリスク が、従来の国民国家の枠を超えて世界 規模で広がり、グローバルなリスクと なってしまうことであり、具体的には ①環境破壊、②金融危機、③テロの 3つの次元に区分されるという。 この対応のためには、アメリカが9.11 後、覇権主義を強め、結局挫折した "一ヶ国主義"ではなく、国家を超えた 国家間協力で秩序を維持するべきと 主張している。 やや難解だったが、訳者解説が充実 していたため、それをヒントに読破。
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講演にもとづくふたつの平易な文章が収められている。 前半の一編が新しいもので、9.11米国のテロ事件に触れている。 著者によると、チェルノブイリも米国同時多発テロも、無差別に多くの民間人を死に追いやった点で共通しており、特に後者に関しては、敵が「国」ではなく、グローバルな何者かと...
講演にもとづくふたつの平易な文章が収められている。 前半の一編が新しいもので、9.11米国のテロ事件に触れている。 著者によると、チェルノブイリも米国同時多発テロも、無差別に多くの民間人を死に追いやった点で共通しており、特に後者に関しては、敵が「国」ではなく、グローバルな何者かという点が強調される。 「敵」も「リスク」もグローバル化した事態だというのが著者の観点だ。 いっぽうで、国家という枠を超えた、新しいグローバルな政治的パワーとして(「サブ政治」と名付けられている)、この本では「グリーンピース」がどうやら評価されている。日本人にとってはグリーンピースは悪いイメージの方が強いのだが、思うに、あちこちで批判を浴びながらクジラを採り続ける日本も不思議だ(クジラの肉なんてあんまり美味くないし)。 インターネットの活用がさらに加速した、この本の書かれた頃より以降の「現在」、もっと「グローバル化」は突き進んでいるのかもしれないが、この「グローバル化」は、実は「個人」を場所から切り離し、どんどん孤独化させていっているようにも思える。 この本を踏まえて、「さらに」のパースペクティヴを開示するような、未知の書物に出会いたい。
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ウルリッヒ・ベック著、島村賢一訳「世界リスク社会論」(ちくま学芸文庫) を読んで。 ①東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故により、脱原発のデモと政府の政策選択に対してのデモがネットメディアに伝えられることなどにより、ベックのリスク社会は日本においても日本の社会にもある...
ウルリッヒ・ベック著、島村賢一訳「世界リスク社会論」(ちくま学芸文庫) を読んで。 ①東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故により、脱原発のデモと政府の政策選択に対してのデモがネットメディアに伝えられることなどにより、ベックのリスク社会は日本においても日本の社会にもある自明のリスクとして認識がひろがった。②ネットメディアが配信するデモの光景は、人々のリスク社会への理解の定着を浸透することになった。③産業社会では、主体が便益とリスクを比較して、意志決定し、行為するものであった。日本においても生産と消費という市場における交換という関係性で、高度成長の中、そして高度成長後にそのようなリスクの理解は定着してきた。④日本では、バブル崩壊とその後の小泉政権時の改革で、リスクにおける説明責任の必要性がいわれ、社会におけるリスクの受容をやむえないものとした。また、そこでは選択しないことのリスクが明に暗にいわれるようになった。⑤その後、日本では長期不況による、日本国内に課題が表面化することが進行していた。経済的な交換を通して構造変化が社会的な課題として表象化することになる。⑥この間、チェルノブイリ発電所の事故以降として、ドイツではベックの社会リスクの認識と理解の定着がひろがることになった。⑦高度経済成長を終えて、そして産業社会の成熟した国の市民は、グローバル化した市場による、リスクの中には消費者の嗜好による選択ではなく、境界なく社会を覆うリスクとして押し付けられるものがあると認識するようになった。⑧そして、日本では東京電力福島第一発電所の事故を発端としてドイツの先見的な経験から学ぶように、日本においても同類のリスク社会の理解が定着することになった。 https://twitter.com/vptdmrwave/status/277163147490639872 https://twitter.com/vptdmrwave/status/277163334694998016 https://twitter.com/vptdmrwave/status/277163474625384448 https://twitter.com/vptdmrwave/status/277163590111350784 https://twitter.com/vptdmrwave/status/277163688157380608 https://twitter.com/vptdmrwave/status/277163851596836864 https://twitter.com/vptdmrwave/status/277163999387344897 https://twitter.com/vptdmrwave/status/277164356792352769 https://twitter.com/vptdmrwave/status/277165532493537280
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※このレビューにはネタバレを含みます
ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊』ちくま学芸文庫、読了。リスク社会論で有名なベックが、同時多発テロ発生から二カ月後にロシアの国会での講演録。近代社会の根本原理である「国家」にあらゆる角度から見直しを迫っている。『危険社会』より冗長な感だが、手頃な入門書。
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リスク管理できない<危険>のグローバル化が引き起こすことについて。 危険(テロ、環境問題など)はいつどこにいても振りかかるものだから、国民国家という枠組みにこだわっていては防いだり対向したりできないし、そもそもそういった概念では捉えられないものになっているので、危険について考え...
リスク管理できない<危険>のグローバル化が引き起こすことについて。 危険(テロ、環境問題など)はいつどこにいても振りかかるものだから、国民国家という枠組みにこだわっていては防いだり対向したりできないし、そもそもそういった概念では捉えられないものになっているので、危険について考えるなら、ともかく国民国家という概念や戦争モデルを捨てて、グローバル化した世界(というか地球)を前提に新しい概念とモデルを考えないといけませんね、という話。 内容の検討は専門家に譲るが、理解はしやすかった。現実的な状況の変化と、概念を刷新する必要との関連がよくわかる。 ※癖のある文章構造をしていて、最初手間取った。頭の方から理解しようとしないで、分からないところがあっても読み進めてしまって、最後にわからなかった辺りにもどるのがオススメ。
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収録されている講演は2件。1つはロシアのモスクワ国会での講演。もう一つはウィーンでの市民向けの講演です。しかし、文章は口語文でありながら内容は講演録とは思えないほどの難しい訳文で構成されていますので、最初は「本当にこんな内容を市民向け講座でしゃべったんかい?」と思ってしまったので...
収録されている講演は2件。1つはロシアのモスクワ国会での講演。もう一つはウィーンでの市民向けの講演です。しかし、文章は口語文でありながら内容は講演録とは思えないほどの難しい訳文で構成されていますので、最初は「本当にこんな内容を市民向け講座でしゃべったんかい?」と思ってしまったのですが、実際そうなのですからヨーロッパにおける市民向け講座のコンテンツのレベルと専門性の高さに感服してしまいました。 副題につけられている「テロ、戦争、自然破壊」の3つは役者があとがきで書き記しているように、著者が研究対象とすると世界規模で広がるリスクに該当する中心的な項目です。1つ目のモスクワ講演は、9/11直後の2001年11月に行われたものであるため、テロリズムの本質を事件直後の早い段階で見抜き、その世界的影響にまで言及している点で高い見識と先見性を備えた研究者(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF)であることに感銘を受けました。 また、2つ目のウィーン講演は1996年のものですが、この時期は1992年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された国連環境開発会議(アジェンダ21)が開催された後、その5年後である1997年には国連環境開発特別総会(リオ+5と呼称)の開催を控えた年でもありました。環境破壊がもたらすリスクに焦点があたり、今はあまり取り上げられなくなった酸性雨を中心に焦点が当たっていたと思い返しています。 著者(LSEのHomepage→http://www2.lse.ac.uk/sociology/whoswho/academic/beck.aspx)は、このウィーン講演で環境破壊が問題化する過程を通じて、リスクそのものがすでに制御不可能なものに容易に昇華しやすいものであることを明らかにしています。この指摘は、止まることもなく昔に戻ることもないグローバル化した世界にあった、政治的な意思決定過程をG7やG20の場で決めることの難しさを映しだす鏡とも言えるでしょう。ベックはこのポイントを、政治家が取り組んでいる地球規模の事象の問題化の過程から見直したという点で重要だと思います。 しかも、その全体像をとらえることが難しい世界化したリスクに対する思考が、概して自己批判的に陥りやすい傾向にあることから、これまでの政治学では視野に入っていなかった消費、私生活などの領域をも組み込まれ、重層的で複合的なものに政治が変質しているとも説いているように思えます。それへの対応措置を編み出せていない現在の人類に「思考する」ことの必要性を説いて、講演は終わります。解決策を容易に見つけ出すことの難しさは、対象となる問題の性質と規模で証明されていると言えるでしょう。着眼点が貴重な研究者ですので、引き続き著作があればウォッチしておきたいと思いました。 最後に。このちくま学芸文庫(http://www.chikumashobo.co.jp/)の本では、紙の質が良くなっているように感じられました。あきらかに発色がよくて、蛍光灯の明かりをもろに反射する光沢がかった上質紙で綴じられていました。文庫本でこんなに良い紙を使ってる本を読んだのははじめてでしたね。口語文で語られていながら説明内容が多く、1ページあたりの文字の密集具合が極度に高く感じる分、文字を際立たせる紙を使って読みやすさを少しでもあげようとしてくれたのかもしれません。粋な配慮と勝手に思い込んでおきます。
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「近代を擁護するために、近代の根本的価値を廃棄するようなことを行っているコスモポリタン的な専制政治の前兆から人類を守るのは、いったい誰なのでしょうか(p18)」
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