純粋理性批判(3) の商品レビュー
人間が世界に触れる時、人の中では何が起きているのか。人が現実だと思っているものは、本当に現実なのだろうか。人は世界をありのままに捉えているのだろうか。おそらくそうではなくて、人はそれぞれ別の見方で世界を捉えていると思う。そして同じものを見ていても、人それぞれ捉え方が違うのだ。カン...
人間が世界に触れる時、人の中では何が起きているのか。人が現実だと思っているものは、本当に現実なのだろうか。人は世界をありのままに捉えているのだろうか。おそらくそうではなくて、人はそれぞれ別の見方で世界を捉えていると思う。そして同じものを見ていても、人それぞれ捉え方が違うのだ。カントのこの本は非常に難解だ。もちろん読む価値はある。だからこそ読む価値があるとも言える。時間と空間を重要な要素として、現象とは何かについて考察する。
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全巻の中でも、かなり難解な巻で、通読するのに時間がかかった。まだまだ消化不足であるが、先を急いでいくことにしよう。
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感性が受け取る直感すなわち経験的対象に、カテゴリーがいかに適用されるかを論じる「図式論」とその各論となる「原則論」。この図式を用いて理性の定める原則との適合性をジャッジする「判断力」と、前分冊で出てきた知性が個別の直感をまとめ上げる際に用いられる「想像力」との関係がよくわからず...
感性が受け取る直感すなわち経験的対象に、カテゴリーがいかに適用されるかを論じる「図式論」とその各論となる「原則論」。この図式を用いて理性の定める原則との適合性をジャッジする「判断力」と、前分冊で出てきた知性が個別の直感をまとめ上げる際に用いられる「想像力」との関係がよくわからず混乱したが、どうやらそれぞれの「根拠づけ」の対象が異なるようだ(前者は理性、後者は知性に権限がある)。 しかしこの「図式論」も厄介な代物だ。現象とカテゴリーを媒介する純粋な形式としての図式即ち〈時間〉が多様な私的経験のうちに含まれているからこそ、客観性を担保するカテゴリーが感性のうちに与えられて自己の追加的な判断即ち〈総合判断〉が成り立つというのだが、本当にこのような複雑な過程を経てアプリオリな総合判断というものが生まれているのだろうか。そもそもこの感性・図式・カテゴリー・原則というメカニズムは実証不可能なカント一流の説明にすぎない。しかし、「現象などの物自体にカテゴリーは直接適用できない」というカントの金科玉条からすれば、特にこの図式は人間認識の制限項として導入不可避なメカニズムだったのだろう。 「原則論」はよく言われるように、「本当にこれだけの原則で概念が網羅されているの?」という素朴な疑問を否応なく惹起するが、僕に関しては特に力学的な原則(関係と様態のカテゴリーに対応する「経験の類比」と「経験的な思考一般の前提条件」)についてはある程度の納得感を伴って読めた。例えばスピノザやライプニッツ的な決定論に対し、因果律は人間が現象認識の結果として確立したものだというカントの主張は、若干情緒的に感じられはするが、人間中心主義的な世界観に立脚する点で共感を覚えた。 なお本分冊では全くメジャーな論点ではないが、個人的には原則論の観念論への反駁で出てくる「基体」の扱いが微妙だなと感じた。カントは我々が対象の変化を知覚する際に、時間そのものは知覚できないのでその代わりに不変なるものとの相対変化を知覚しているという。ここが外部の実体性を要請する点でバークリ的な際限のない懐疑論やデカルトの唯心論的懐疑に対する論駁の根拠となっているのだが、この不変な基体というものの実体が判然としないのだ。どうやら対象の変化というのは対象の不変な基体すなわち「実体」そのものではなく、その属性が変化するさまを指すようだが、やはりライプニッツが言うように「対象の実体」という変化しない本質というのはそれこそ人間が認識不能な「物自体」の最たるものではないのか。それとも、カントは人間に認識可能な「変化」を定義するためにそのような基体という概念を構成的に導入したのだろうか。つまり人間がアプリオリにもつ法則に従い変化を認識する際に、構成的に後付けで設定される基準点のようなものか。確かに「コペルニクス的転回」ではあるが、しかしそれだと循環論そのものになってしまうような気がするのだが…。
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訳:中山元、原書名:KRITIK DER REINEN VERNUNFT(Kant,Immanuel)
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ハイデガーの「カントと形而上学の問題」を読むために本棚から引っ張り出してきた。「観念論論駁」部分をとりあえず先に読む。
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買いました。 青山ブックセンター本店 (2013年2月25日) 読み始めました。 (2013年5月9日) やっぱり、こう、分かるというのは、偉大なことです。 こうした訳業をなさる人は、偉大です。 また、訳業を支える出版社も、偉大です。 また、それを支える読者がいるということに...
買いました。 青山ブックセンター本店 (2013年2月25日) 読み始めました。 (2013年5月9日) やっぱり、こう、分かるというのは、偉大なことです。 こうした訳業をなさる人は、偉大です。 また、訳業を支える出版社も、偉大です。 また、それを支える読者がいるということに勇気をもらえます。 (2013年5月10日) 14歳の時に、『啓蒙とは何か』を手にしてから、 カントは常に、自分の近くに置いていました。 でも、この『啓蒙とは何か』を除くと、 常に、もやもやして、分からないのがカントでした。 分かるカントに出会えて、本当にうれしい。 (2013年5月10日) 山手線車内、原宿駅付近で読み終えました。 (2013年6月6日)
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この巻の前半に出てくる「図式」(シェーマ)という概念は、なかなか面白いと思った。 その後に続く思索は、そろそろ難しくなってきており、厳密なあまり退屈を感じないでもない。 「アプリオリ/アポステリオリ」という区別や、「感性/知性/理性」といった区分に関しては、当時のカントにとっては...
この巻の前半に出てくる「図式」(シェーマ)という概念は、なかなか面白いと思った。 その後に続く思索は、そろそろ難しくなってきており、厳密なあまり退屈を感じないでもない。 「アプリオリ/アポステリオリ」という区別や、「感性/知性/理性」といった区分に関しては、当時のカントにとっては重大だったかもしれないが、現代の私たちにとっては、そんなに緻密に区別できるものでもないし、そうすることにさほどの意味も見いだせない。 やはりカントもまた、時代の「言語」の内側にいて、別の言語空間から眺めると必然性・絶対性を欠いた思考遊戯をやっているように見えてしまう。 「物自体」は人間には知り得ないし、感性をとおして対峙せず、知性のみから把握された知(概念)は空虚である、とカントは言うが、たとえば物質の分子-原子-素粒子へと突き進んでいった自然科学の知見の歴史そのものによって、カント的思考の枠組みは一部乗りこえられてしまっている。 とはいえ、時代の制約を追いながらも、力強く厳格なカントの思考はやはり天才的なものであって、イギリス経験主義をはるかに超えてラディカルな近代哲学をきりひらいた事実の重要さは、いささかも損なわれることはない。
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1,2巻再読してから読み始めたから結構時間経ってしまった。 この辺りがピークなんじゃないかとなんとなく思ったり。 超越論的な分析論の巻です。 本編よりも付録の「知性の経験的な使用と超越論的な使用の混同によって生まれる反省概念の両義性について」が面白かった。 良いと思った定...
1,2巻再読してから読み始めたから結構時間経ってしまった。 この辺りがピークなんじゃないかとなんとなく思ったり。 超越論的な分析論の巻です。 本編よりも付録の「知性の経験的な使用と超越論的な使用の混同によって生まれる反省概念の両義性について」が面白かった。 良いと思った定理をひとつ書いておく。 「わたしの外部の空間の中に対象が存在することを証明するのは、わたし自身が現実存在するという、たんなる経験的に規定された意識である。」
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決して読んで分かったとは言えない。しかし、同じインタレストを共有できた納得の気持ちはある。三巻はより近づいてる。因果関係、時間、現象、物自体(あるいは病気自体)、空間。存在、観念論、反省といった僕ら臨床屋が毎日取っ組み合っている命題がここでは議論される。 カントの文章は分かりづ...
決して読んで分かったとは言えない。しかし、同じインタレストを共有できた納得の気持ちはある。三巻はより近づいてる。因果関係、時間、現象、物自体(あるいは病気自体)、空間。存在、観念論、反省といった僕ら臨床屋が毎日取っ組み合っている命題がここでは議論される。 カントの文章は分かりづらい。あえて言おう。文章が下手である。一説には当時のドイツ事情からわざと分かりにくくしたという説もあり、ドイツ語独特の長々した文章の特徴という説もあり、翻訳の問題という説もあるが、それを差し引いてもカントの文章が下手だ、という要素は大きいと僕は思う(素人が偉そうにごめんなさい)。中山元の解説を先に読むほうがよい。こちらはとても理解しやすい、納得のいきやすい文章である(難しいけど)。そのあとでカントの地の文を読むとずいぶん違う。 4巻も楽しみだ。一所懸命読みたい。
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