岳物語 の商品レビュー
著者、笹倉明さん、どのような方かというと、ウィキペディアには、次のように書かれています。 ---引用開始 笹倉 明(ささくら あきら、1948年11月14日 -)は、日本の小説家。タイ在住の上座部仏教の日本人比丘(僧侶)。比丘としての名前はプラ・アキラ・アマロー[1]。シンガ...
著者、笹倉明さん、どのような方かというと、ウィキペディアには、次のように書かれています。 ---引用開始 笹倉 明(ささくら あきら、1948年11月14日 -)は、日本の小説家。タイ在住の上座部仏教の日本人比丘(僧侶)。比丘としての名前はプラ・アキラ・アマロー[1]。シンガーソングライター・レコーディング・エンジニア・スタジオ兼カフェのオーナーで内装職人の笹倉慎介は実子。 ---引用終了 で、本作は、「天の誰かが好いていた」と題し、1984年5月に出版されたものに、大巾な加筆をしたもの。 その内容は、次のとおり。 ---引用開始 ハンディを長所に、不運を運に変えながら鮮やかに青春を生きてみせた男がいた。斎藤清作、のちのコメディアンたこ八郎。ボケ役の背後にかくされた過去の栄光と挫折。激しい闘いの日々とドン底の流浪、そして再びの生。少年の日の芸能界への憧れと夢、ありあまる若いエネルギーを昭和の日本プロボクシング黄金期に燃焼させていく男の情熱と友情を描く、会心のノンフィクション・ノベル。 ---引用終了 そして、たこ八郎さん、どのような方かというと、ウィキペディアには、次のように書かれています。 ---引用開始 たこ 八郎( - はちろう、本名:斉藤 清作(さいとう せいさく)、1940年〈昭和15年〉11月23日 - 1985年〈昭和60年〉7月24日)は、日本の元プロボクサー・コメディアン。 元日本フライ級王者。俳優活動では太古 八郎、多胡 八郎、多古 八郎、タコ 八郎などの名義も用いた。 座右の銘は「迷惑かけてありがとう」。 ---引用終了
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夕刊紙だったかスポーツ紙だったかは忘れたが、大きな見出しは 今でも覚えている。 「たこ、海で溺死」 コメディアン・たこ八郎の訃報を伝えるものだった。たこさんが 海でなんて、なんて出来過ぎた話だろうと思った。 たこ八郎こと、斎藤清作。コメディアンになる前はプロ・ボクサー だっ...
夕刊紙だったかスポーツ紙だったかは忘れたが、大きな見出しは 今でも覚えている。 「たこ、海で溺死」 コメディアン・たこ八郎の訃報を伝えるものだった。たこさんが 海でなんて、なんて出来過ぎた話だろうと思った。 たこ八郎こと、斎藤清作。コメディアンになる前はプロ・ボクサー だった。そんなことさえも知らず、テレビ・ドラマでの彼のコミカルな 動きが好きだった。 本書はたこ八郎のボクサー時代をモデルにした小説『天の誰かが好いて いた』に大幅加筆をして文庫化された作品だ。 子供の頃にガキ大将にぶつけられた泥玉が原因で、左目の視力のほとんど を失う。この出来事が後の彼のボクシング・スタイルに影響する。 「喜劇役者になりたい」 そう思った清作少年は、実家の農業を嫌って高校卒業と同時に上京する。 銀座の宝飾店に就職するも居心地の悪さはいかんともしがたい。 少しでも芸能界に近い所へと思って探した仕事は映画館へのフィルム運び。 その途中でボクシング・ジムを覗いたことから、プロ・ボクサーへの道が 開ける。 片目が見えないハンデを克服する為に、対戦相手のパンチをかわすこと なく受ける。相手が打ち疲れたところで反撃に出るスタイルを確立する。 漫画「あしたのジョー」のノーガード戦法のモデルとなった戦い方だ。 しかし、この戦法は頭部へのダメージが強い。 そして、全日本フライ級王座に輝いたもののパンチ・ドランカーとなった 彼は3回目の防衛戦に判定負けを喫して引退することとなる。 チャンピオンとなった彼が抱えた闇のような不安、ボクシングを続ける ことへの嫌悪感、自分の体が変化していることへの恐怖。それが、切なく 苦しく伝わって来る。 本書はボクサー時代を中心に書かれているので、引退後から死までには 詳細には触れていない。でも、それで充分なのかもしれない。 引退後に同じ東北出身だからと喜劇役者の大御所・由利徹に弟子入りする も、パンチ・ドランカーの後遺症である排泄障害・言語障害に苦しみ、 わずか半年余りで去る。 その後、消息不明になりながらもコメディアンとして多くの人に愛された。 そうして、そんな人気の中で酒を飲んで海に入り帰らぬ人となった。 「迷惑かけてありがとう」 東京・下谷の法昌寺に赤塚不二夫らが建立した「たこ地蔵」には、たこ さんの座右の銘が刻まれている。 昭和60年7月24日。44歳にて永眠。もしかしたら、海は彼にとってゆりかご だったのではないだろうか。
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